"愛人とタイへ行った夫の10日後" 第1話
「タイへ張にってくる。きなプロジェクトの察だから、10ほど戻らない。その、母さんの介護は任せたぞ」
玄関先で靴を履きながら、夫の浩司は面倒くさそうにそう言った。私の顔を見ることもなく、しく買ったきなシルバーのスーツケースを持ちげると、その隙から私のらない甘いの匂いがふわりと漂った。
「気をつけてね」
私はそれだけを言った。
浩司は振り返りもしなかった。迎えに来たタクシーへに乗り込み、その横顔には仕事へ向かう50代の会社員らしい緊張より、旅を目にした若者のような浮ついた笑みが浮かんでいた。
私は玄関のにったまま、が角を曲がって見えなくなるまで見送った。
やがてドアを閉めると、のは再び苦しい静けさに包まれた。
いや、完全な静寂ではなかった。
1階の奥にある当たりの悪いから、チリン、チリンと呼び鈴の音が響いた。
「由美さん。ちょっと、由美さん。喉が渇いたわ。くお茶を持ってきなさい」
義母の声だった。
3、義母は脳梗塞で倒れた。命は取り留めたものの半に麻痺が残り、今ではほとんど寝たきりにい活を送っている。
事の介助、排泄の世話、体を拭くこと、着替え、寝返り、薬の管理。毎必になるその全てを、嫁である私が1で担ってきた。
広告
「はい、お義母さん。今きます」
さくため息をつき、私はキッチンでぬるめのお茶を用した。
の襖をけると、く介護を続けている部特の匂いがに入った。消毒液と古い布団、それに排泄物の残りが混ざった、もう私にはすっかり馴染んでしまった匂いだった。
この部をに活するようになって、3になる。
「遅いわね。浩司はどうしたの?」
義母は、私がストロー付きのコップを元へ運ぶのを睨むように見ながら尋ねた。
「タイへ張にきました。10ほど留守にするそうです」
「まあ。じゃあ、そのはあんたみたいな気の利かない嫁と2きりってこと?」
義母は骨に嫌そうな顔をした。
「嫌だ嫌だ。浩司もかわいそうね。こんなのためにをにして働いて」
胸の奥がわずかに痛んだ。
私は3、夜に何度起こされても文句を言わなかった。ずれができないよう義母の体を抱え、い体を何度もへ向けた。眠れない夜が何続いても、朝になれば事を作った。
それでも、「ありがとう」と言われた記憶は度もなかった。
義母にとって私は、昔からかわいい息子を奪った嫁だった。介護されるになってからも、その考えは変わっていない。
私は黙ってコップを片付け、汚れたパジャマを替えようと義母の腕にを添えた。
広告
その瞬、昨夜見た景がに蘇った。
浩司が浴に入っている、洗面所に置きっぱなしになっていたスマートフォン。その画面がるくなり、メッセージの部が表示されたのだ。
〈浩司さん、タイのホテル、プール付きのスイート取れたよ♡ 着もしく買ったから楽しみにしててね。美穂〉
美穂。
その名に、私は当たりがあった。
浩司の会社と取引のある企業に勤めている、彼よりひと回り以若い女性だった。
以、浩司のワイシャツの襟に女性用のファンデーションがついていたことがある。私が尋ねると、浩司は笑いながら言った。
「美穂ちゃんっていう取引先の子が、み会で酔って寄りかかってきただけだよ。くだらないことで疑うな」
その頃からだった。
急にだしなみに気を遣うようになったこと。
週末になると「ゴルフ」と言ってすること。
介護で疲れ果てている私には目も向けず、スマートフォンだけは肌さず持ち歩くようになったこと。
あの違は、全部つながっていた。
張などではない。
浩司はとタイ旅へったのだ。
私が毎義母のおむつを替え、暴言に耐え、美容院へくさえなくなり、荒れたに絆創膏を貼っているに。
浩司は若い女と国のホテルで過ごすため、きなスーツケースを買った。
「ちょっと、痛いじゃないの」
義母の声でに返った。
「わざとく引っ張ったでしょう。本当に器用な嫁だこと」
で腕を叩き落とされた。
広告
おすすめ作品
-
完結第15話
妻の葬儀で老犬が暴いた秘密
妻の葬儀から3日目の夜、元自衛隊三佐の石田隆は、老犬・小太郎の異様な行動に息をのんだ。 後飾り祭壇へ飛びかかった小太郎。その拍子に倒れたろうそくの火が白布へ燃え移り、祭壇の下に隠されていた不自然な床板が露わになる。 そこから見つかったのは、妻・幸子が大切にしていたはずの花瓶と、身に覚えのない不動産書類だった。 階段からの転落事故として片づけられた妻の死。だが、弟夫婦との金銭トラブル、土地を巡る不可解な要求、そして幸子が亡くなる直前に残していた「大丈夫」という言葉が、少しずつ別の意味を帯びていく。 妻は本当に事故で亡くなったのか。 老犬が暴いた床下の秘密をきっかけに、隆は妻が最後まで守ろうとしていた家と、葬儀の陰で隠された真実を追い始める――。夫婦|真相|金銭問題2.2万字5 229 -
完結第14話
帰国したら、夫に双子がいた
1年間の海外赴任を終え、千里が帰国した日。空港で夫・修平の隣に立っていたのは、20年来の親友・春奈だった。 しかも春奈のお腹には、双子の命が宿っていた。 妻が海外で夫の会社を支えるために働いている間、夫と親友はいつの間にか深い関係になっていた。怒鳴ることも泣き崩れることもなく、千里は静かに指輪を外し、離婚の準備を始める。 だが、春奈の妊娠時期、家計口座から流れていた大金、そして義母が密かに残していた録音が、思いがけない真実へとつながっていく。 双子は本当に夫の子なのか。 親友が欲しかったのは愛だったのか、それとも高瀬家という安全な居場所だったのか。 裏切られた妻が、夫も親友も頼らず、自分の人生を取り戻していく静かな逆転劇。夫婦|第二の人生|修羅場|不倫2.2万字5 28 -
完結第14話
帰国した僕を待っていたボロ家
7年間、アメリカで必死に働き続けた木村健二。 妻と息子、そして母のために仕送りを続け、岐阜の実家も新しく建て替えた。帰国の日、健二は家族が立派な新居で自分を待っていると信じていた。 しかし、そこで彼を迎えたのは母と兄夫婦だけ。妻・早苗と息子・勇気の姿は、家のどこにもなかった。 不審に思った健二が辿り着いたのは、町外れの川沿いに建つ古びたプレハブ住宅。そこには、やつれた妻と、破れた問題集を大切に使う息子の姿があった。 自分が送った大金は、どこへ消えたのか。 なぜ妻子だけが新居から追い出されたのか。 7年間信じてきた“家族”の裏側で、健二の知らない嘘と沈黙が静かに積み重なっていた――。夫婦|真相|親子関係2.0万字5 1659 -
完結第12話
私の名前を消した夫
東京国際リハビリテーション医療センターの着工記念式典当日、神崎しおりは会場入口で足を止められた。 招待者名簿から、彼女の名前だけが消されていたのだ。 3年間かけて基幹設計を作り、祖父から受け継いだ絵画を売って5億円まで投じたプロジェクト。その晴れ舞台に立っていたのは、夫・尚弥と、しおりのVIPバッジを胸につけた若い女性だった。 「肩書きを貸すだけだ」 そう言い放つ夫を前に、しおりは静かに会場を去る。 しかしその直後、彼女が一本の電話をかけた瞬間、巨大プロジェクトは音を立てて崩れ始める。 奪われた名前、盗まれた設計、消えた5億円。 すべてを踏みにじられた女が、自分の名で立ち上がる逆転劇――。人生逆転|夫婦|不倫1.7万字5 313 -
完結第11話
喪服妻を捨てた3日後
父の告別式を終えた直後、由美の前に夫・浩司が離婚届を置いた。 「会社に戻らない妻はいらない」 父の介護に半年を費やした由美を責める夫。その背後には、会社の若い広報主任・美穂の姿があった。由美は喪服のまま離婚届に判を押し、静かに夫のもとを去る。 しかし、亡くなる直前の父は、由美に一本の古い鍵を託していた。 葬儀が終わった後、父の作業場を開けた由美は、三つの灰色の容器と一枚の試験記録を見つける。そこに記されていたのは、夫の会社の主力商品に関わる、見過ごせない異変だった。 父が最後まで守ろうとしていたものは何だったのか。 そして3日後、浩司の会社では、主力商品の出荷が静かに止まり始める――。夫婦|裡の顔1.6万字5 542 -
完結第14話
3人の息子は、夫の隠し子だった
離婚届に署名した直後、夫・総一郎は私に言った。 「3人の息子の中から1人選べ」 名門・斎藤家の妻として、5年間、私は3人の息子を育ててきた。けれど彼らは、私の実子ではなかった。夫の愛人が産んだ子どもたちだったのだ。 そして、家の中でただ一人、冷たく扱われていた娘・小春だけが、私にとって守るべき存在だった。 「あなたの隠し子なんて、1人もいらない」 そう告げて娘の手を取った瞬間、斎藤家が隠してきた嘘が崩れ始める。 親子鑑定書、偽造された書類、奪われかけた親権、そして夫がどうしても小春を手放そうとしなかった本当の理由。 離婚は終わりではなかった。 娘を守るため、そして自分の人生を取り戻すための、静かな反撃がここから始まる――。夫婦|親子関係|不倫2.1万字5 265 -
完結第11話
その家、私のです
離婚届を差し出した夜、夫は当然のように言った。 「この家には、俺と母さんが住む」 18年連れ添った妻・絵里に出て行けと言いながら、夫は家だけは手放さないつもりだった。義母もそれを当然のように受け入れ、絵里の荷物を勝手に片づけ始める。 けれど、その家は絵里が結婚前に買い、ローンを完済したものだった。 怒鳴ることも、泣きつくこともせず、絵里は静かに家を出る。そして弁護士に相談しながら、夫と義母に明渡しの準備を進めていく。 だが調停の中で、夫が家にこだわった本当の理由が少しずつ見え始める。 「母さんのため」という言葉の裏に隠されていた、もう一つの計画。 3か月後、絵里が送った一通の通知が、夫と義母の思い込みを崩していく――。因果応報|嫁姑|夫婦|熟年離婚1.6万字5 2512