"山に捨てられた妻は立ち上がる" 第1話
第1話 に残された妻
「ここなら空気もいい。しに当たっていろ」
鈴健はそう言って、妻の膝に掛けたいブランケットをえた。
妻をいたわる夫の声だった。だが、そのは子のブレーキを最までろさず、止まっているように見える位置へ軽く引っかけただけだった。
奥摩の林は、昼でも暗かった。舗装の切れた先には砂利の急坂が続き、そのは々に覆われた斜面になっている。子が数センチめば、もう自力では止められない。
健は妻の顔をのぞき込んだ。
鈴佳奈は首を傾け、半分閉じた目で膝のあたりを見ていた。患者の襟元には汗がにじんでいる。それでも声をさず、指本かさなかった。
「病院のい井より、ずっといい景だろう」
返事はない。健は満したようにで息を吐き、背を向けた。
砂利を踏む靴音がざかり、黒いSUVのドアが閉まった。エンジン音が肌に反響し、やがて蝉の声のへ溶けていく。
残された佳奈の頬を、汗がゆっくり伝った。
いが吹いた。半端に掛かっていたブレーキが、かちりとれた。
子がわずかにへく。
その瞬、眠っているはずの佳奈が目をいた。膝ののブランケットへを差し入れ、隠していたスマートフォンをつかむ。
すべては、4かに始まっていた。
広告
品川の再発区で、佳奈は建設の複ビルを見げていた。
52歳の佳奈は、1級建築士であり、株式会社鈴設計の創業者でもある。30歳でさな事務所をき、22かけて社員80の設計会社へ育てた。座に所する商業ビルをはじめ、会社とは別に複数の収益物件も持っていた。
そのは本来、佳奈が現へ来る予定ではなかった。午7過ぎ、健から「施会社が変更点の承認を急いでいる」と話が入り、役員会のにち寄ったのだ。
現へ着いてみると、急いで確認しなければならない変更などなかった。森は、予定表を勘違いしたのではないかと曖昧に笑った。
「専務から、社が今確認すると聞きました」
「健から?」
「はい。昨夜、直接お話をいただきました」
佳奈は胸にさな違を覚えた。設計変更の連絡は必ず担当部を通す。それを最もよくっている健が、なぜ現責任者へ直接話したのか。
2階へ向かう、佳奈は資材搬入に設置された防犯カメラを見げた。通常なら赤く点灯しているはずの作ランプが消えている。
「カメラも故障しているんですか」
森は瞬だけ言葉に詰まり、「今朝から点検です」と答えた。
「2階の避難階段、すりのさが図面と違います」
佳奈が指摘すると、現責任者の森孝之は慌てて図面をいた。
広告
「仮設ですから、仕げまでには直します」
「仮設だから事故が許されるわけではありません。今に確認してください」
調は静かだったが、森は目をわせなかった。
佳奈はヘルメットをかぶり直し、2階へがった。階段脇の仮設すりにを添えると、属がわずかにいた気がした。
「森さん、これ――」
最まで言うに、すりの根元が抜けた。
体が側へ傾く。伸ばしたは空をつかみ、次の瞬、佳奈はコンクリートのへ落ちていた。
音がのいた。腰からの覚がなく、呼吸をするたび背に鋭い痛みがる。作業員たちの叫び声の向こうで、森が何かを拾うのが見えた。
すりを固定していたボルトだった。
森はそれを袋のへ握り込み、作業着のポケットへ入れた。
救急ので佳奈が識を失い、次に目をけた、い井と健の泣き腫らした顔があった。
あとで聞いた話では、健は救急が病院へ到着するより先に、救命救急センターで待っていたという。会社から現まではで30分以かかるのに、事故の連絡から20分も経っていなかった。
佳奈はその事実を議にった。しかし全を襲う痛みと術への恐怖のでは、夫がく来てくれたことを疑う余裕などなかった。
「佳奈、分かるか。俺だ」
健は両で彼女のを包み、護師がいるだけ何度も名を呼んだ。
警察と労働基準監督署による最初の確認では、すりの固定部品が劣化して破断した能性がいと説された。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
靴磨きの少年と会長の時計
有楽町の高架下で靴を磨く18歳の佐藤蓮には、他人には聞こえない微かな機械音を聞き分ける力があった。ある日、常連客である東都ホールディングス会長・田中健三の腕時計から、機械式時計には存在しない電子音を聞き取る。留め具から現れたのは、米粒ほどの盗聴器だった。会長に請われて本社へ入った蓮は、次々と情報漏洩を防ぐが、やがて産業スパイに仕立て上げられる。300万円の入金、深夜の入館記録、捏造写真。会社だけでなく帰る場所まで奪われた少年は、古い靴箱に残した証拠を抱え、会長を追い落とそうとする陰謀に立ち向かう。職場逆転|人生逆転1.7万字5 265 -
完結第12話
留守番を命じられた妻
父が遺した築43年の家で、夫・浩司と義母・和子に尽くしてきた52歳の由美子。和子の喜寿を祝う2泊3日の温泉旅行を予約し、32万円を用意したのも彼女だった。ところが出発直前、「車が狭いから留守番ね」と置き去りにされる。後部座席の見知らぬ鞄、妊婦向けプランに変えられた予約、消えた実印。夫と義母は、妊娠した若い愛人を迎え、由美子の父の家まで奪おうとしていた。しかし2人を笑顔で見送った由美子は、すでに登記事項証明書と偽造書類を揃え、静かな反撃を始めていた。人生逆転|嫁姑|不倫1.8万字5 705 -
完結第12話
「中卒は留守番してろ」と空港に置き去りにされた私――数時間後、高級旅館の女将が上司だけを追い返した
中卒ながら独学で資格を取り、旅行会社に中途入社した22歳の天野澪。現場経験を生かして難航していた企画を救っても、学歴を嘲る竹内部長に成果を奪われ続けていた。やがて澪は、予約困難な老舗旅館・天祥館の視察枠を獲得する。ところが出発前夜、竹内は部下を脅し、澪の航空券だけを密かに取り消した。羽田空港に1人残された澪へ届いたのは、「中卒は留守番してろ」というLINE。事情を知らず天祥館へ着いた同僚たちを待っていたのは、チェックインを認めない女将だった。なぜ女将は、不在の新人を待つのか。そして澪が保存した操作履歴と録音は、竹内の嘘をどこまで暴くのか。人生逆転1.8万字5 925 -
完結第10話
仕送り10万円の行方
父が毎日お茶漬けばかり食べていると知り、美幸は胸がざわついた。 毎月10万円、父のために仕送りしているはずだった。けれど父は、不思議そうな顔でこう言う。 「仕送り? 俺は一円ももらってないぞ」 慌てて銀行へ確認しようとしたその瞬間、そばにいた夫・武志が青ざめ、ガタガタと震え出した。 消えていた毎月10万円。 父の口座ではない振込先。 そして、夫と姉が密かに会っていた理由。 ただの仕送りトラブルだと思っていた出来事は、やがて夫の失職、姉の借金、義母の裏切り、そして家族ぐるみの嘘へとつながっていく。 信じていた家族の本当の顔を知った時、美幸が選んだ答えとは――。夫婦|親不孝|孤獨|金銭問題1.5万字5 929 -
完結第13話
夫の赴任先にいた「妻」
夫の単身赴任先を訪ねた美玲を迎えたのは、見知らぬ若い女性だった。 「うちの主人のお友達ですか?」 その一言で、2年間信じてきた結婚生活は音を立てて崩れ始める。夫・隼人は、赴任先で別の女性と暮らし、彼女には「妻とはもう終わっている」と話していた。 しかし、美玲が知ることになる夫の秘密は、不倫だけではなかった。 義母の介護を理由に仕事を辞めさせられ、義実家で“嫁”として家事と介護を背負わされていた美玲。そんな中、義母の部屋に設置されていた見守りカメラが、夫の人生を揺るがす決定的な会話を記録していた。 妻として、嫁として、都合よく扱われ続けた美玲が、最後に取り戻したものとは――。夫婦|修羅場|不倫2.0万字5 635 -
完結第10話
子どもを救って、僕は処分された
交差点で飛び出しかけた子どもを避けるため、市営バス運転士の北川蓮はとっさに急ブレーキを踏んだ。 子どもとの接触は避けられた。しかし車内では、降車しようとして立ち上がった高齢女性が転倒し、右手首を骨折してしまう。 翌朝、会社が蓮に差し出したのは「前方確認不足による危険運転」を認める謝罪文だった。 信号は見落としていない。子どもは確かに車道へ出かけていた。けれど、乗客を傷つけたこともまた事実だった。 会社は早く責任を運転士ひとりに押しつけようとし、世間は記事の見出しだけで蓮を責める。そんな中、蓮のもとに差出人不明の一通の手紙が届く。 そこには、事故の日に誰も語らなかった“もう一つの真実”が書かれていた。 守った命と、傷つけてしまった人生。 正しさだけでは割り切れない事故の先で、若い運転士が本当の責任と向き合っていく物語。因果応報|人生逆転1.5万字5 173 -
完結第12話
花嫁が僕を犯人にした朝
結婚式まで、あと1時間20分。 ホテルの支度室で、花嫁・白石奈緒は切り裂かれたウェディングドレスを前に、衣装修復担当の朝倉湊を指さした。 「ドレスを切ったのは、この人です」 しかし湊には分かっていた。昨夜、保管室で彼が見た時、ドレスはすでに切られていた。そして奈緒は、震える声で「明日の式を止めてほしい」と頼んでいたのだ。 なぜ花嫁は、自分を助けようとした男を犯人に仕立てたのか。 やがて、ドレスの内側に縫い込まれていたはずの封筒、消えた書類、三浦家の融資計画、そして花嫁本人の不可解な沈黙が、結婚式の裏に隠された別の真実を浮かび上がらせていく。 切られたのは、ドレスだけではなかった。 守るべき秘密と、押しつけられた罪。その境目に立たされた一人の修復師が、自分の人生を取り戻していく物語。人生逆転|真実|修羅場1.7万字5 2 -
完結第10話
「無職の父」と呼ばれた6年間
「無職のあなたに、病気のある子どもを育てられると思う?」 妻・美咲からそう言われた佐伯公平は、言葉を失った。10歳の息子・悠人は、4歳の頃から1型糖尿病と向き合っている。血糖値の確認、食事管理、通院、学校との連絡――そのすべてを6年間支えてきたのは、公平だった。 しかし妻は、安定した収入を理由に息子を連れて出ていこうとしていた。さらに、悠人にはすでに新しい部屋や転校の話まで伝えられていた。 父親として過ごしてきた時間は、「無職」という一言で消されてしまうのか。 公平は、6年間の連絡帳と医療記録を手に取る。そこには、誰にも見えなかった父と息子の日々が残されていた。 親権をめぐる争いの中で明らかになる、夫婦のすれ違い、息子の本当の気持ち、そして“家族”の形。 これは、父親として生きてきた時間を取り戻すための、静かな戦いの物語。人生逆転|夫婦|親子関係1.5万字5 313