"13歳の娘だけ、保険証にいなかった" 第6話
おじさんにも事があった。じゃあ私の事は誰が聞いたんですか」
定雄は目を伏せた。
修は何もを挟まなかった。
「私は藤井で育って、ずっと藤井美津子だとってました。でも役では違うって言われた。こっちのの子だって言うなら、どうして度も会いに来なかったんですか」
「何度か、様子は聞いていた」
「誰に?」
「子さんの親戚に」
「私には回も聞いてない」
定雄は返事ができなかった。
しばらくして、奥の棚から古い呂敷包みを持ってきた。
「清のものだ」
には写真が数枚入っていた。
軍姿の若い男。
復員らしい痩せた男。
の隣で、赤ん坊を抱く男。
最の枚を見た瞬、美津子は息を止めた。
「これ……私?」
「そうだ」
「抱いてるのがお父さん?」
「ああ。清だ」
今まで自分のにいなかった「父親」が、急に写真のから現れた。
修とは違う顔。
細い目。
し照れたような笑い方。
美津子は写真から目をせなかった。
定雄は言った。
「清はな、体が悪くても娘だけは抱くって言って聞かなかった。医者には寝てろと言われてたのに」
美津子の目に涙が浮かんだ。
自分を抱いたことのある父がいた。
それを13らなかった。
「のことも聞きたい」
美津子は涙を拭って尋ねた。
定雄の顔が再びくなった。
清の名義だったさな畑の持分と預の部は、治療費と葬儀、の活費に使われた。
広告
残りは名義理が済まないまま定雄が管理しており、美津子が成すれば渡すつもりだったという。
修はった。
「そんな話、度も聞いてないぞ」
「おに渡すじゃない」
「誰が俺にくれと言った!」
美津子はを止めた。
「もういい」
修が黙った。
「私、おのために来たんじゃない」
定雄は女を見る。
「じゃあ、何のためだ」
美津子は写真を胸のへ置いた。
「私が誰なのかりたかった」
定雄の顔から力が抜けた。
帰る、彼は写真を枚、美津子に渡した。
清とが赤ん坊の美津子を挟んで座っている写真だった。
「持っていけ」
「いいんですか」
「元々、おが持つべきものかもしれん」
美津子は受け取った。
帰りのバスの。
修はしばらく黙っていた。
「腹ったか」
美津子が聞いた。
「何が」
「本当のお父さんの写真もらったから」
修は娘を見た。
「どうして俺がるんだ」
「分かんない」
「俺が父親だからって、清さんが父親じゃなくなるわけじゃない」
美津子は窓のを見た。
その言葉だけは。
しだけ。
胸に落ちた。
野を訪ねてから数週、美津子は学で突然腹痛を訴えた。以からの腹部に々痛みがあったが、べ過ぎだとってしていた。そのは授業に顔が真っ青になり、ちがろうとした瞬、そのへしゃがみ込んでしまった。
教師から連絡を受けた子が学へ駆けつけ、町の診療所へ連れてった。
広告
医師は腹部を診察するとすぐに顔をしかめ、「急性虫垂炎の疑いがい。町の病院へ回した方がいい」と紹介状をいた。
修も製材所から駆けつけた。
病院では診察そのものが回しにされたわけではなかったが、受付で保険資格の確認を求められ、子の顔が張った。しい保険証に美津子の名がないため、役へ資格関係を問いわせなければならない。
ベッドで痛みに耐える娘を見ながら、修は唇を噛んだ。
「俺が役へく」
「今?」
「今だからくんだ」
子は夫を見た。
「あのから、また何もしてないだろ」
美津子が保険証の問題をってから、族はの秘密を話し、野にも会いにった。けれど正式な分理については「落ち着いてから」と再び先延ばしになっていた。
修自、それに気づいていた。
度目は戦の混乱。
度目は親族の反対。
度目は活の忙しさ。
そして今。
また同じように「そのうち」で済ませようとしていた。
役へ着くと、修は担当者へ言った。
「養子縁組の続きをめたい」
職員は事をっていた。
「藤井さん、以の類も残っています。今なら美津子さん本のも確認しながら理できます。ただ、戸籍関係は度きちんと確認しましょう」
「全部やる」
「しがかかりますよ」
「かかってもやる」
修は言った。
「13待たせた。今さら数を惜しむ話じゃない」
広告
おすすめ作品
-
完結第18話
昭和27年、戦争未亡人が開いた小さな店の50年
昭和27年の春。戦争で夫を亡くした三十歳の女性は、八歳の息子を育てるため、自宅の一角に小さなたばこ屋を開いた。初めて売れた一箱のピース。窓の横で宿題をする息子。毎朝やってくる常連客。決して楽な暮らしではなかったが、小さな窓の向こうには、いつも誰かの声があった。やがて息子は成長し、町には自動販売機が増え、馴染みの客も一人、また一人と姿を消していく。そして開店から五十年、彼女は店を閉める決心をする。時代|歴史|昭和|夫婦3.7万字5 112 -
完結第10話
受話器の向こうの春
昭和19年、神戸。幼いころに母と弟妹を亡くし、親戚の家を転々としてきた15歳のハルは、自分の力で生きるため、電話交換手を目指す。厳しい試験と訓練を乗り越え、ようやく手にした仕事。失敗ばかりの日々も、優しい先輩や仲間たちに支えられ、ハルは初めて自分の居場所を見つけていく。受話器の向こうには、家族を思う声、助けを求める声、遠い街で働く仲間の声があった。しかし戦況が悪化するにつれ、つながらない回線が増え始める。戦火が迫る神戸で、少女が守ろうとしたものとは――。時代|歴史|昭和1.5万字5 110 -
完結第20話
大正、子守奉公の少女
大正時代、貧しい農家に生まれた十一歳の少女は、「三度の飯」を条件に子守奉公へ出された。赤ん坊を背負う毎日から工場近くの家、東京の屋敷へ。三年分の奉公賃は家族に渡され、働く場所も自分では決められなかった。やがて海を越えて旅順へ渡った彼女は、子どもたちの世話をしながら、文字を覚え、針仕事を学び、少しずつ自分の世界を広げていく。誰かのために働くことしか知らなかった少女は、いつか自分の人生を選べるようになるのだろうか。時代|歴史|真相2.8万字5 358 -
完結第20話
昭和62年、国鉄最後の日に駅弁を一つ売らなかった理由
昭和62年3月31日、国鉄最後の日。森渡駅で三十年以上、鶏めし弁当を売り続けてきた宮原澄江は、最後の一個を売らずに残した。翌日から駅の売場はなくなり、長年守ってきた商売も岐路に立たされる。新しい販売条件、息子が勧める国道沿いの店舗、従業員たちの生活。変わりゆく町で、澄江は初めて自分の仕事と向き合い始める。なぜ彼女は、最後の弁当を売らなかったのか。時代|歴史|昭和2.8万字5 166 -
完結第20話
シャッターを切らなかった日
昭和46年、水俣。写真館で働く17歳の村瀬航一は、町の現実を新聞に伝えようと、仕立て屋の橋本夏枝にカメラを向ける。しかし、彼女から「撮らないで」と拒まれた後、以前撮った手の写真が本人の了承なく新聞に掲載されてしまう。その一枚は夏枝の仕事と暮らしに思わぬ影響を及ぼした。工場で働く父、被害を訴える住民、善意で支援する人々。それぞれの事情に触れるなかで、航一は問い始める。人の苦しみを伝えることと、その人の人生を勝手に語ることは、同じなのだろうか。激動の昭和を背景に、写真と人間の尊厳を描く物語。時代|歴史|昭和|真相2.7万字5 86 -
完結第12話
消えた路地の矢印
昭和39年、東京オリンピックを目前に控え、東京の街は急速に姿を変えていた。23歳の標識職人・黒田俊も、新しい道路の案内板を作る仕事に追われていた。ところが工事によって古い路地が封鎖され、診療所へ通う老人や商店の人々が行き場を失い始める。立ち退きを迫られる活版所の親子、変わり続ける迂回路、そして正しいはずの標識に迷わされる人々。時代|歴史|昭和|真相|修羅場2.8万字5 54