"昭和51年、帰宅目前で消えた25歳女性社員" 第1話
昭51(1976)初。神奈川県川崎の臨業帯は、本の度経済成を牽引してきた気が緩やかに落ち着きを見せつつも、依然として巨なエネルギーを吐きし続けていた。
昼夜を問わず林する無数の煙突からはの煙が吹きがり、空をたく覆い尽くしている。属を削り取る甲い摩擦音、ガス溶接の激しい、型トラックが響きをててき交うディーゼルエンジンの唸り声。全体がまるでつのきている巨な械のように、規則正しく、そして休むことなく拍していた。
その業帯の片隅に社を構える堅精密械部品メーカー「精」の3階フロアで、川島みち子(25歳)は窓際の席に座っていた。
カタカタ、タン、とリズミカルに卓を叩く澄んだ音が、フロアの喧騒にさく溶けていく。入社3目を迎えたみち子は、経理課の主力として々の売掛や買掛の照、伝票の理に追われていた。几帳面な文字で元帳に数字をき込むその横顔は、真面目で清楚そのものだった。当の女性社員といえば、やを卒業して数勤めたのち、20代半ばで「寿退社」するのが当たりとされていた代である。同僚や親戚からも縁談の話がちらほら持ちがっていたが、みち子は自分ので正確に計算を締め、会社を支えるこの仕事にささやかな誇りとやりがいをじていた。
広告
「おい、川島君」
太く濁った声が背からってきた。
みち子はボールペンを置き、背筋を伸ばして静かに振り返った。グレーのりスーツにを包み、黒縁の太い鏡の奥から鋭い目をらせている男――経理課の田(45歳)だった。社歴20を超える叩きげで、仕事には妥暴を許さない厳格さを持つ方、面倒見が良い司として社内での信望はかった。ただ、常にくゆらせている葉巻の甘たるい匂いと、無を言わせぬ威圧は、若い女性社員たちにとってさからぬ理圧でもあった。
「は、はい、田課。何でしょうか」
「今夜、空けておけよ。例の属との型契約が無事に締結できた。その祝勝会をやる。経理課総で盛に祝うぞ」
田の元には満げな笑みが浮かんでいた。しかし、みち子の臓はトクンと嫌なね方をした。
「あの……課。実は今夜、の方でし用事がありまして……」
みち子は指先を膝のでさく握りしめた。実で暮らす両親の顔が浮かぶ。彼女はもともと酒の席が得ではなく、煙の煙が充満する騒がしい空にを置くこと自体が苦だった。さらに週末には腰のってきた母の事を伝う約束もしていた。
だが、田はみち子の言い淀んだ空気をにも介さず、太い指でポンと彼女のデスクを叩いた。
広告
「何を言ってるんだ。経理課全員参加の祝いの席だぞ。君が類を揃えてくれたおかげでまとまった契約でもあるんだからな。主役のが抜けてどうする。18に会社のエントランス集だ。いいな」
昭の職において、管理職の誘いに「ノー」を突きつける権利など、若社員、とりわけ若い女性事務職にはしなかった。反論を封じる無言の同調圧力が、たい刃のようにフロアを満たしている。みち子は喉元までかかった辞退の言葉をみ込み、さくをげた。
「……承いたしました。ありがとうございます」
田が満そうに背を向けて歩きると、隣の席で昼の弁当箱を片付けていた先輩女性社員が、デスク越しにを乗りして打ちしてきた。
「川島さん、災難ね……。田課のみ会、度がついたらいわよ。次会、次会まで連れ回されるのは覚悟しておいた方がいいわ」
みち子は困ったように微笑むしかなかった。
昼休み、みち子は事務所の湯の隅に置かれた黒話の受話器を取った。なダイヤルに指を入れ、ジーコ、ジーコと実の番号を回す。
『はい、川島でございます』
受話器の向こうから、聞き慣れた母・静枝の穏やかな声が響いた。
「お母さん、私。あのね、急なんだけど、今夜会社の営業の契約祝いでみ会が入っちゃって……帰りが遅くなるの」
『まあ、そうなの? あまり無理をなさらないでね。
広告
おすすめ作品
-
完結第18話
昭和27年、戦争未亡人が開いた小さな店の50年
昭和27年の春。戦争で夫を亡くした三十歳の女性は、八歳の息子を育てるため、自宅の一角に小さなたばこ屋を開いた。初めて売れた一箱のピース。窓の横で宿題をする息子。毎朝やってくる常連客。決して楽な暮らしではなかったが、小さな窓の向こうには、いつも誰かの声があった。やがて息子は成長し、町には自動販売機が増え、馴染みの客も一人、また一人と姿を消していく。そして開店から五十年、彼女は店を閉める決心をする。時代|歴史|昭和|夫婦3.7万字5 190 -
完結第10話
受話器の向こうの春
昭和19年、神戸。幼いころに母と弟妹を亡くし、親戚の家を転々としてきた15歳のハルは、自分の力で生きるため、電話交換手を目指す。厳しい試験と訓練を乗り越え、ようやく手にした仕事。失敗ばかりの日々も、優しい先輩や仲間たちに支えられ、ハルは初めて自分の居場所を見つけていく。受話器の向こうには、家族を思う声、助けを求める声、遠い街で働く仲間の声があった。しかし戦況が悪化するにつれ、つながらない回線が増え始める。戦火が迫る神戸で、少女が守ろうとしたものとは――。時代|歴史|昭和1.5万字5 140 -
完結第20話
大正、子守奉公の少女
大正時代、貧しい農家に生まれた十一歳の少女は、「三度の飯」を条件に子守奉公へ出された。赤ん坊を背負う毎日から工場近くの家、東京の屋敷へ。三年分の奉公賃は家族に渡され、働く場所も自分では決められなかった。やがて海を越えて旅順へ渡った彼女は、子どもたちの世話をしながら、文字を覚え、針仕事を学び、少しずつ自分の世界を広げていく。誰かのために働くことしか知らなかった少女は、いつか自分の人生を選べるようになるのだろうか。時代|歴史|真相2.8万字5 366 -
完結第20話
昭和62年、国鉄最後の日に駅弁を一つ売らなかった理由
昭和62年3月31日、国鉄最後の日。森渡駅で三十年以上、鶏めし弁当を売り続けてきた宮原澄江は、最後の一個を売らずに残した。翌日から駅の売場はなくなり、長年守ってきた商売も岐路に立たされる。新しい販売条件、息子が勧める国道沿いの店舗、従業員たちの生活。変わりゆく町で、澄江は初めて自分の仕事と向き合い始める。なぜ彼女は、最後の弁当を売らなかったのか。時代|歴史|昭和2.8万字5 169 -
完結第17話
忘れたコートが教えてくれたこと
結婚式まであと3週間。高橋ゆいは婚約者・博人の実家に忘れたコートを取りに戻り、衝撃的な会話を耳にする。食卓に広げられていたのは、祖母から相続した自分のマンションを、博人の実家が営む会社の追加担保にする計画書だった。しかも本人への説明は「婚姻後1週間」の予定。14人の従業員を守るためだと訴える婚約者の母と、すべてを知りながら黙っていた博人。人生逆転|裡切られた|夫婦|真相|修羅場2.0万字5 680 -
完結第20話
死んだ母を名乗る女
母を亡くして二年。三十歳の浅沼美咲は、空き家となった実家を片付けている最中、郵便配達員から思いがけない言葉を告げられる。「先月もお母様にお会いしましたよ」。亡くなったはずの母を名乗り、郵便物を受け取っている女がいるというのだ。家の中に残された生活の痕跡、天井裏から聞こえる不審な物音、そして母宛てに繰り返し届く現金書留。兄とともに調べ始めた美咲は、疎遠だった叔母の影と、母の遺産をめぐる不穏な思惑に気づく。死者の名を使ってまで隠そうとした秘密とは。真相|親子関係2.3万字5 1639 -
完結第20話
シャッターを切らなかった日
昭和46年、水俣。写真館で働く17歳の村瀬航一は、町の現実を新聞に伝えようと、仕立て屋の橋本夏枝にカメラを向ける。しかし、彼女から「撮らないで」と拒まれた後、以前撮った手の写真が本人の了承なく新聞に掲載されてしまう。その一枚は夏枝の仕事と暮らしに思わぬ影響を及ぼした。工場で働く父、被害を訴える住民、善意で支援する人々。それぞれの事情に触れるなかで、航一は問い始める。人の苦しみを伝えることと、その人の人生を勝手に語ることは、同じなのだろうか。激動の昭和を背景に、写真と人間の尊厳を描く物語。時代|歴史|昭和|真相2.7万字5 89 -
完結第12話
消えた路地の矢印
昭和39年、東京オリンピックを目前に控え、東京の街は急速に姿を変えていた。23歳の標識職人・黒田俊も、新しい道路の案内板を作る仕事に追われていた。ところが工事によって古い路地が封鎖され、診療所へ通う老人や商店の人々が行き場を失い始める。立ち退きを迫られる活版所の親子、変わり続ける迂回路、そして正しいはずの標識に迷わされる人々。時代|歴史|昭和|真相|修羅場2.8万字5 56