"帰国した父が「家族を忘れた」と言った日" 第11話
「へ入ったら、たくさんのことを学べ。友を作り、本を読み、自分の言葉をノートにき留めろ」
健次は両でその箱を受け取った。
ずっしりとした属のみが、の平に伝わってくる。
「お父さん、使ってもいいの?」
「ああ。おのためのペンだ」
父は机のの古い球儀をゆっくりと回した。
本列島のさな弧から、ユーラシア陸を越え、いヨーロッパの端へと指を滑らせる。
「健次。世界は広い。だがな、世界をるということは、国の真似事をすることじゃないんだ」
父の瞳は、静かに、く澄んでいた。
「自分のがっている所をること。自分の族をすること。そして、負けたに、自分の言葉で『すまなかった』と言えることだ。……それができないは、どこへっても、誰からもされない」
健次は万を胸に抱きしめ、くをげた。
「忘れないよ、お父さん。絶対に忘れない」
窓のでは、の夜が庭の梅の枝を優しく揺らしていた。
、異国へ旅った父が失い、そして再び取り戻した「言葉」のみが、息子の掌ので、温かい命となって息づいていた。
昭4748、曜。
都の入学式は、満の桜がい散る青空のでわれた。
真しい黒の詰め襟の制にを包んだ健次は、ので、父と母のにっていた。
母は、に仕て直したあのウールのスーツを着て、誇らしげに息子の肩にを添えていた。
広告
そして父は、設された規格調査の辞令を胸ポケットに忍ばせ、穏やかな笑みを浮かべてカメラのレンズを見つめていた。
「はい、撮りますよ。笑ってくださいね」
写真館の親父が声をかけ、カシャリとシャッターが切られた。
式が終わり、武蔵野のが吹き抜ける善福寺川の遊歩を、族で歩いた。
川面には無数の桜のびらが浮かび、ピンクの帯となって流へと流れていく。
「健次、お父さんはこれからへくよ。午は、アメリカ規格の全基準についての会議があるんだ」
「うん。ってらっしゃい、お父さん」
駅の改札ので、父がを止めた。
父は健次の詰め襟の襟元をえ、制の庇をクイとげた。
「しっかりやれよ、」
「お父さんもね。無理しないでよ」
は顔を見わせて笑った。
父は鞄を持ち直し、改札鋏の気よい音が響く改札へと歩みをめた。
切符を切り取ってもらい、階段を登っていく父のろ姿。
その背は、のあの、羽田空港のタラップを登っていった英雄の背よりも、ずっとさく、丸みを帯びていた。
しかし、健次の目には、今の父の背こそが、世界のどんな偉よりも雄で、誇りく見えていた。
失敗し、傷つき、にまみれながらも、嘘の鎧を脱ぎ捨てて族の元へ帰ってきた男の背。
広告
「お父さん!」
健次はわず声を張りげた。
階段の途で、父がち止まり、振り返った。
「ってらっしゃい!」
健次がを振ると、父は制の息子を見つめ、力くをく掲げて応えた。
のが、父の掲げた掌をまばゆく照らししていた。
健次は胸ポケットに差したしい万のクリップに触れた。
代は、昭からさらに先へと、凄まじい速度で駆け抜けていくだろう。
しい技術がまれ、国境はれ、世界はよりく、より複雑になっていくだろう。
だが、どれほど世界が変わろうとも、自分には帰るべき所がある。
を澄ませば、いつでも聞こえてくる。
あの狭い畳で、湯気をてていた噌汁の音。
そして、器用に、しかし命を削るようにして紡ぎされた、父の本当の言葉たちが。
健次はく息を吸い込み、を受けながら、自らのでしい代のへと向かって、力く歩みした。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
昭和35年、上野駅に現れた二人の「ハルコ」
昭和35年春。集団就職列車を迎えに上野駅へ来た食堂の主人は、「山本春子」と呼ばれた少女が二人同時に手を挙げたことに戸惑う。一人は店で働くために上京した春子。もう一人の晴子は、三年前に東京へ出た姉を捜していた。姉は故郷へ帰ったことになっているのに、家族は誰も会っていない。不審に思った主人が古い雇用通知書を調べると、晴子の帰郷を証明する書類に、自分の署名が残されていた。誰が少女たちの名前を使い、何を隠していたのか。集団就職の時代を背景に、書類一枚に翻弄された若者たちの人生を描く物語。時代|歴史|昭和|真相2.3万字5 69 -
完結第12話
卒業写真の空いた席
昭和40年、秋田県の山あいにある中学校。成績優秀な佐伯澄江は、家計を支えるため、高校進学を諦めて東京の縫製工場へ就職することになった。ところが卒業写真を撮る日、澄江は突然学校へ来なくなる。担任の女性教師が見つけたのは、少女が残した一枚の紙だった。そこには、紹介状に書かれた就職先と、母親が指定した送金先の住所が違うと記されていた。さらに、東京で結婚したはずの姉にも不可解な事情があるらしい。卒業証書を手に上京した教師は、少女たちの知られざる働き方と、家族の間に隠された事情を知っていく。時代|歴史|昭和2.3万字5 517 -
完結第12話
最後の伝書鳩
昭和19年、南方の山地。撤退を命じられた部隊は、谷に残された九人の兵士と連絡が取れなくなっていた。 通信兵の関谷清一伍長は、彼らが「未帰還」の一言で片づけられることに納得できない。しかし、無線は故障し、残された伝書鳩は最後の一羽だけ。報告書が敵の手に渡れば、百人以上の仲間まで危険にさらされる。 命令を守るか、九人の居場所を知らせるか。関谷は報告書の裏に、九人の名前と谷の場所を書き込んだ。 戦場で一枚の報告書と一羽の鳩に、九人の命を託した通信兵の物語。時代|歴史|昭和|真実2.3万字5 123 -
完結第15話
母ちゃんへの三千円
昭和39年春。十五歳の坂本吉雄は、母と幼いきょうだいたちの暮らしを支えるため、青森から集団就職列車に乗って東京へ向かった。大田区の小さな町工場で待っていたのは、厳しい親方と油まみれの仕事、六畳一間の共同生活。それでも先輩やおかみさんに励まされ、少しずつ仕事を覚えていく。やがて初めての給料を受け取った吉雄は、その大半を故郷の母へ送った。ところがその夜、青森から一通の電報が届く。東京オリンピックに沸く昭和の街で、十五歳の少年を待ち受けていた思いがけない知らせとは。時代|歴史|昭和2.2万字5 100