"給料袋を取り上げる姑と、娘の進学" 第1話
「料、もらったんだろう」
に敷かれた濡れ雑巾を踏みしめた瞬、がり框の暗がりから、骨ばったが突きされた。 入れのき届いた、しかし節くれだって乾いた姑・タツの掌だった。
昭、晩。埼玉県の部に広がる、畑と興の町が雑然と入り混じる町の夕暮れ。 歳の典子は、自転のハンドルを握りしめていたを反射に胸元へ引き戻した。いウールのコートの内ポケットには、先ほどの事務で渡されたばかりの、茶褐のクラフト封筒が入っている。 ずっしりとしたみ。千円札が枚と、百円貨が数枚。、朝のえ込みので菜のを洗い、塩漬けの樽を運び、ちっぱなしで腰を痛めながらに入れた、典子ので初めての「自分だけの稼ぎ」だった。
「お義母さん、あの……」 「しなさい。何をぼさっと突っってるんだい」
タツの声には、りも嘲笑も含まれていなかった。ただ、庭の井戸からを汲みげ、濡れた拭いを絞るのと同じ、常の当然の作としての徹な平坦さがあった。
「はい。ですけれど……しだけでいいんです。恵子の、来の学のための積に、千円だけでも――」 「何を寝ぼけたことを言ってるんだい」
タツのが、典子の言葉を遮るようにコートのわせ目をかすめ、ポケットから封筒をむしり取った。
広告
バリッ、とが擦れる乾いた音が、暗い玄関に響く。
「おがどこで何働こうが、ここは浩のだよ。このに持ち込まれたは、すべてこののだ。嫁がで稼いできたからって、自分の遣いにしていい理がどこにある」 「遣いじゃありません! 恵子のの――」 「その話はもう済んだはずだよ」
タツは封筒の封もけず、慣れた仕で絣の着物の懐へと滑り込ませた。 その線は、典子の顔を通り越し、台所の奥の茶のへと注がれている。
「男の子と女の子じゃ、背負うものが違うんだ。正はこのを継いで、墓を守らなきゃならない。恵子はいずれ所のへ入るだ。余計な恵をつけて、婚期を遅らせてどうするんだい」 「お義母さん!」 「さあ、がったがった。くを熾しておくれ。浩がもうすぐ帰ってくるよ。あの子にひもじいいをさせたら承しないからね」
タツは音もなく背を向け、磨き抜かれた廊を奥へとんでいった。 に取り残された典子の元を、隙が撫でていく。 握りしめていたのひらには、先ほどまで抱きしめていた料袋の、角張った触の余韻だけが虚しく残っていた。
音を忍ばせて奥の畳へ入ると、ちゃぶ台の端で歳の女・恵子が、豆球のかりので教科をいていた。
広告
母の気配に顔をげた娘の瞳は、すべてを察したように微かに揺れ、そしてすぐに伏せられた。
(このままじゃ、この子の未来が消えてしまう)
典子は奥歯を噛み締め、台所の勝へ向かった。だが、彼女はまだらなかった。 姑がこのを奪ったのは、私利私欲のためなどという分かりやすい悪からではなかったことを。そして、その「正しい悪」の正体に気づいた、このに隠されてきた本当の獄がをくのだということを。
夜を回った頃、町の油の匂いを全に染み付かせた夫・浩が帰宅した。 玄関の引き戸がガラガラとき、い作業靴が脱ぎ捨てられる。
「ただいま。……おい、飯はあるか」 「おかえりなさい。今、温め直すわ」
典子は台所からすり鉢と噌汁の鍋を運び、ちゃぶ台へ並べた。 麦飯に、根と油揚げの噌汁、そしてタツが漬けた塩辛い沢庵。それに、浩のにだけ並べられた、切れの塩鮭。歳の男・正は待ちきれない様子で箸をかし、恵子は黙々と米をに運んでいた。
タツは浩の隣に座り、甲斐甲斐しく茶を注ぎながら言った。 「浩、今の仕事はどうだったかい。景気は良くなりそうかい」 「いや……京のオリンピック景気だ何だって騒いでるのは企業だけだよ。うちみたいな孫請けの鉄所は、親会社から単価を叩かれて散々さ。
来のも、るかどうか怪しいもんだ」
浩は肩を落とし、濁った茶を気にみ干した。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
昭和35年、上野駅に現れた二人の「ハルコ」
昭和35年春。集団就職列車を迎えに上野駅へ来た食堂の主人は、「山本春子」と呼ばれた少女が二人同時に手を挙げたことに戸惑う。一人は店で働くために上京した春子。もう一人の晴子は、三年前に東京へ出た姉を捜していた。姉は故郷へ帰ったことになっているのに、家族は誰も会っていない。不審に思った主人が古い雇用通知書を調べると、晴子の帰郷を証明する書類に、自分の署名が残されていた。誰が少女たちの名前を使い、何を隠していたのか。集団就職の時代を背景に、書類一枚に翻弄された若者たちの人生を描く物語。時代|歴史|昭和|真相2.3万字5 82 -
完結第12話
卒業写真の空いた席
昭和40年、秋田県の山あいにある中学校。成績優秀な佐伯澄江は、家計を支えるため、高校進学を諦めて東京の縫製工場へ就職することになった。ところが卒業写真を撮る日、澄江は突然学校へ来なくなる。担任の女性教師が見つけたのは、少女が残した一枚の紙だった。そこには、紹介状に書かれた就職先と、母親が指定した送金先の住所が違うと記されていた。さらに、東京で結婚したはずの姉にも不可解な事情があるらしい。卒業証書を手に上京した教師は、少女たちの知られざる働き方と、家族の間に隠された事情を知っていく。時代|歴史|昭和2.3万字5 542 -
完結第12話
最後の伝書鳩
昭和19年、南方の山地。撤退を命じられた部隊は、谷に残された九人の兵士と連絡が取れなくなっていた。 通信兵の関谷清一伍長は、彼らが「未帰還」の一言で片づけられることに納得できない。しかし、無線は故障し、残された伝書鳩は最後の一羽だけ。報告書が敵の手に渡れば、百人以上の仲間まで危険にさらされる。 命令を守るか、九人の居場所を知らせるか。関谷は報告書の裏に、九人の名前と谷の場所を書き込んだ。 戦場で一枚の報告書と一羽の鳩に、九人の命を託した通信兵の物語。時代|歴史|昭和|真実2.3万字5 131 -
完結第15話
母ちゃんへの三千円
昭和39年春。十五歳の坂本吉雄は、母と幼いきょうだいたちの暮らしを支えるため、青森から集団就職列車に乗って東京へ向かった。大田区の小さな町工場で待っていたのは、厳しい親方と油まみれの仕事、六畳一間の共同生活。それでも先輩やおかみさんに励まされ、少しずつ仕事を覚えていく。やがて初めての給料を受け取った吉雄は、その大半を故郷の母へ送った。ところがその夜、青森から一通の電報が届く。東京オリンピックに沸く昭和の街で、十五歳の少年を待ち受けていた思いがけない知らせとは。時代|歴史|昭和2.2万字5 100