"給料袋を取り上げる姑と、娘の進学" 第3話
典子が働きにても、タツは茶碗つ洗おうとはしなかった。 「で働くのはおの勝。の仕事が疎かになったら、即座にを辞めてもらうよ」 それがタツのした絶対条件だったからだ。
ある曜の夜。 のかりが消え、浩のいいびきが隣から聞こえる、典子は喉の渇きを覚えて台所へりた。 茶ののを通りかかった、襖の隙から細いが漏れているのに気づいた。
(……棒?)
息を殺し、襖の隙からを覗き込んだ。 灯の暗いの、タツが背筋を正して座っていた。 老鏡を先にかけ、さなをにして、ので綴じられた学ノートに向きっている。
タツは折、さなそろばんをパチパチと弾き、くため息をつきながら、文字文字、帳面に数字をき込んでいた。その横顔には、昼に見せる酷な姑の表はなく、老いさらばえたの女の、すさまじい執と疲労が刻まれていた。
やがてタツが席をち、便所へ向かう音が廊に響いた。 典子は吸い寄せられるように茶のへ忍び込んだ。
ちゃぶ台のにかれたままの帳面。 典子は目を凝らし、その面を見つめた。
「……え?」
そこに並んでいたのは、典子の像を絶する景だった。
『 米 百円』 『同 正ノート鉛 円』 『同 浩作業靴修繕 円』 『同 燈料 百円』 『同 典子持参 万百円』
広告
円単位の狂いもなく、々の支と収入が几帳面な楷で記録されていた。 さらに驚くべきことに、『タツ遣い』という項目は、過半のどこを探しても銭たりともしなかった。 タツが着ている絣の着物は、膝のあたりに何もの当て布が縫い付けられている。自分が贅沢をするためにおを巻きげているのではない。 典子がで稼いできた万千円のうち、活費の赤字補填に回されたのは千円ほどで、残りの万円は、そのまま「貯蓄」の欄へと移されていた。
(お義母さんは……私利私欲で奪ったんじゃないの……?)
典子の胸に、激しい揺がった。 タツは、ただひたすらに、爪にをともすようにしてこの困窮する計を守り、蓄えを作っていたのだ。 自分は、姑の厳しさを「嫁いびり」だと決めつけ、被害妄に陥っていただけなのではないか。 良の呵責が、典子の胸をチクチクと刺した。
だが――。 典子の堵は、次の瞬、凍りつくような戦慄へと変わった。
ページをめくった番ろ。 朱の墨で厳に囲まれた、特別な積のページ。 そこにかれていた見しの文字を読んだ瞬、典子の全から血の気が引いていった。
そこには、太い文字でこう記されていた。
《男・正 県・学学積》
典子の線は、その文字に釘付けになった。
広告
震える指先で頁を押さえ、へと線を滑らせる。
『浩与引き分 累計万千円』 『田畑作料戻り分 万千円』 『 典子賃より繰入 千円』
典子が血の滲むいで働いて稼ぎ、玄関でタツに奪われた万千円のうち、実に千円が、そのまま「正の将来のための資」として計されていたのだ。
典子は狂ったようにのページをめくった。 何度も、何度も、指の腹が擦り切れるほどノートをめくり返した。
どこにもない。 歳の正の名は、何箇所もてくる。正の学用品、正の着、正のための肉、正のための積。 だが――歳の女・恵子の名は、々のわずかなノート代と、すり減った履きの買い替え費用以、積の欄にはただの文字もしなかった。
「……ない」
喉の奥から、ヒュッと引きつった音が漏れた。
タツはを使い込んでなどいなかった。 パチンコにくわけでも、価な着物を買うわけでもない。 極めて真面目に、極めて誠実に、分の隙もなく「族の将来」を設計していた。
ただし、その「族」のに、娘である恵子の未来は、最初からミリも組み込まれていなかったのだ。 正をへかせ、あわよくば京の学へ学させ、このの名をめる。その栄の台として、典子の労働力と、恵子の学の断が、最初から「計算済みの資材」
広告
おすすめ作品
-
完結第18話
昭和44年、最終バスから消えた女性車掌
昭和44年、女性車掌・藤村紀子は最終バスの途中で姿を消し、車掌鞄から三万円を盗んで逃げたと噂された。25年後、娘の美和が廃校の屋根裏で十三枚の乗車券を発見する。当夜の公式記録は乗客十二人だったが、十三枚目は家庭で虐待されていた九歳の少年・高瀬誠の切符だった。 紀子は帰宅を拒む誠を継父・大島へ渡さず、夫の英一に託して鉱山会社の不正資料を取りに向かった。事故隠蔽や児童労働の証拠を掴んだものの追われて富山へ逃れ、その後三度手紙を送っていた。しかし英一は、最初は誠を守るため、後には自分の嘘が露見する恐怖から、すべて受取拒否にしていた。三万円の盗難も、運転手や営業所長らが作った偽装だった。 生存していた紀子と再会した美和は、母の潔白を証明しても、25年の不在まで無条件には許さない。会社記録は訂正され、十三枚の切符は廃校の資料室に保存される。父母は離婚し、美和は双方と境界を定めながら関係を築き直す。最後に母娘は一緒に資料室の戸締まりをし、次に会う日を、初めて誰にも決められず自分たちで選んだ。歴史|昭和|ミステリー|真相2.7万字5 48 -
完結第18話
昭和五十一年、消えた父の声を十八年後に聞いた
昭和51年、深夜番組の途中で言葉を止めたアナウンサー・孝一が、そのまま姿を消した。局から消えた200万円を持ち逃げしたと疑われ、家族には盗人という噂だけが残る。18年後、娘の奈津美は放送局の壁から、当夜の未放送音声を記録したテープを発見する。 調査の末、孝一はダム建設に伴う戸籍偽装と土地補償の不正を知り、死亡したことにされた女性の娘を守ろうとして町を離れたと判明する。200万円の受領書も局幹部による偽装だった。しかし危険が去った後も、孝一は家族に拒絶されることを恐れ、自ら帰らない年月を重ねていた。 奈津美たちは父と再会するが、すぐに昔の家族へ戻ろうとはしない。父の潔白だけでなく、その後の沈黙も記録に残し、それぞれの距離で関係を築き直す。資料館では途切れた放送と地域の声が保存され、孝一は新たな記録に《今度は、返事がなくても、自分から確かめる》と書き残した。昭和|ミステリー|真相|行方不明2.7万字5 60 -
完結第10話
帰れなかった実家
昭和30年、房子は父危篤の電報を受け取るが、姑タミから「この家の嫁なら実家へ帰るな」と命じられ、夫・正雄にも引き止められる。翌日、法事の最中に父の訃報が届き、房子は最後の別れを奪った姑と夫に心を閉ざした。 五年後、今度はタミの姉が倒れる。房子に過去を突きつけられたタミは、自分も若い頃、姑に母の葬儀へ行かせてもらえなかったと告白する。苦しみに意味があったと思うため、同じ理不尽を嫁へ受け継がせていたのだ。それでも房子は、姉が生きているうちに会うようタミを送り出した。 二人がすぐ親密になることも、房子が過去を忘れることもなかった。しかしタミは、嫁いでいく孫娘に「ここもあなたの家。帰りたい時は帰りなさい」と伝える。房子が姑を完全に許したからではなく、「自分がされたから次の人にもする」という鎖を止めたことで、家族の価値観は一世代をかけて変わり始めた。時代|歴史|昭和1.4万字5 55 -
完結第19話
廃線の駅で待ち続けた父
昭和37年、源吉は毎週金曜日、15年前に列車が来なくなった青谷駅のベンチで誰かを待っていた。駅員の中村が古い記録を調べると、源吉の息子・修一は終戦後の列車事故で消息を絶っていた。 しかし修一は、事故の直前に戦災孤児の健一を助けるため列車を降りていた。源吉が本当に待っていたのは息子ではなく、「修一さんに助けられた。いつか会いに行く」と手紙を送った健一だった。 中村は30歳になった健一を探し出す。修一の家族を苦しめることを恐れ、15年間会いに行けなかった健一は、最後の金曜日に青谷駅を訪れる。源吉はその顔へ震える手を伸ばし、「修一に似ている」と静かに告げた。歴史|昭和|ミステリー2.9万字5 59 -
完結第11話
帰国した父が「家族を忘れた」と言った日
5年間の海外赴任を終え、昭和47年に帰国した隆夫。しかし家族の思い出を避け、海外での仕事ばかり語る父に、息子の修一は「家族を忘れてしまった」と感じ、親子の距離は広がっていく。 ある日、修一は父の鞄から、家族へ送られなかった大量の手紙を見つける。隆夫は家族を忘れたのではなく、自分が父親として忘れられることを恐れていた。帰国後も、5年間不在だった自分と向き合えず、海外で成功した会社員として振る舞い続けていたのだ。 再び海外赴任と昇進を提示された隆夫は、初めて会社ではなく家族を選ぶ。数年後、社会人になる修一へ「仕事は大事だ。でも、帰る場所をなくすな」と伝える。本当の意味で家族のもとへ帰るまでの、父と子の再生の物語。時代|歴史|昭和1.7万字5 67