"旅館に残された姉" 第2話
千代は芳子の腕を掴み、台所の暗い隅へと引っ張っていった。 「お父さんにられたら、どうなるか分かってるね」 母の声は震えていた。 「お父さんは、修平を商業へかせたからずっと『をたらすぐに帳に入れ、宿を継がせる』と言い張ってる。学なんて受かったとれたら、通を破り捨てられて、修平は納に閉じ込められるよ」
源蔵の頑固さと声の激しさは、町内でもれ渡っていた。 先代から継いだ藤乃を自分の代で潰すわけにはいかないという迫観が、源蔵を何倍も偏屈にしていた。 修平が子供の頃から、源蔵は酒をむたびに「この宿は修平が継ぐ。修平のものだ」と周囲に吹聴してきた。修平自の志など、度たりとも問われたことはない。
「じゃあ……諦めさせるの? 修平、あんなに夜遅くまで油の切れた部で勉してたのに」 芳子の脳裏に、夜な夜な灯のかりので教科をいていた弟の姿が浮かんだ。 修平は体がく、宿の力仕事を伝うとすぐにをした。宿の帳に縛り付けられることを、誰よりも恐れていた。
千代は青ざめた唇を噛み締め、箪笥から取りした粗末な布の財布を芳子のに押し当てた。 「芳子……あんたが修平を連れてって」 「えっ……?」 「の朝番の汽に乗せて、県の学までっておくれ。
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入学と期の授業料、私がしずつ内職で貯めたへそくりがある。続きさえ済ませてしまえば、いくらお父さんだって取り消せやしない」
芳子はを疑った。 逆らうことなど考えたこともなかった母が、父を欺き、息子のために謀反を起こそうとしている。 父のりをに浴びる恐怖よりも、弟がしい世界へびてるかもしれないという歓が、芳子の胸を満たした。 自分はで学業を断し、この暗い厨に埋もれてきた。だが、修平だけは救われる。
「……分かった。私、修平を連れてく」
翌朝、午分。 まだ夜の帳が落ちたままの静寂の、芳子と修平は宿の裏から抜けした。 駅までの里のを、でに歩く。 始発の蒸気関が吐きすい蒸気が、のホームを覆っていた。
ガタゴトと揺れる等客の製シートで、芳子は弟に封筒を渡した。 震えるで格通を広げた修平の瞳から、粒の涙がポロポロと零れ落ちた。 「姉ちゃん……俺、本当に受かったんだ。……でも、っていいのかな。親父がるよ。姉ちゃんに迷惑がかかる」 「何を言ってるの」 芳子は弟の丸まった肩を抱き寄せ、優しく笑いかけた。 「きたいんでしょう? 先になりたいんでしょう?」 「……うん。俺、子供に勉を教える先になりたいんだ」 「だったら胸を張りなさい。
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お父さんのことは、お母さんと私がなんとかするから」
そのの芳子は、本気でそう信じていた。 弟の自由のために自分が盾になることすら、姉としての誇らしい務めだと疑っていなかった。 その無垢な献が、どれほど残酷な結末を引き寄せるかもらずに。
続きは午にはすべて完した。 入学許証の控えを胸ポケットにしまい、修平の学寮の見を済ませたが渋湯温泉へ戻ったのは、夜のを回った頃だった。
藤乃の玄関をくぐった瞬、芳子の背筋にがった。 いつもなら仄暗い帳に、百燭の裸球が煌々と灯り、玄関のには酒瓶が転がっていた。
がり框に、腕組みをした源蔵が仁王ちしていた。 その元には、千代が正座し、額を畳に擦り付けるようにして平伏している。
「帰ってきたか」 をうような源蔵の声。 「誰の指図で、学なんぞの続きへった」
郵便局の配達夫が、昼に源蔵へ「修平君、国に受かったそうで、おめでとうございます」とを滑らせたのだという。 源蔵の脈が額に青黒く浮きがっていた。
修平が芳子のにみた。青い顔をしながらも、歳のは初めて父親の目を真っ向から見据えた。 「父さん、俺がきたくてったんだ。……俺は、宿を継ぐなんて言も言ったことはない」
「黙れッ!」 源蔵のが閃いた。 鈍い音と共に修平の体が吹きび、帳の障子を突き破って倒れ込んだ。
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