"旅館に残された姉" 第10話
「なら、押さなくて結構です」 芳子は便箋を千代のから回収しようとした。 だが、千代はとっさにそのを胸元に抱え込んだ。
「待って……持って帰るよ。お父さんに見せてみるから……」
翌朝、千代はい取りで阪をっていった。 週が過ぎ、週が過ぎても、野からは何の音汰もなかった。 芳子は千成の厨で、これまで通り乱に包丁を握り続けた。戻れなくても構わない。自分のは、すでに自分の腕本で切り拓ける所に達していたからだ。
しかし、初から盛へと季節が移り変わる旬。 藤乃を決定な破滅が襲った。 数名の団体客から入っていた法事の予約が、料理をせないという理由で直にキャンセルされ、それに激した町内会から「藤乃はもう使い物にならん」と絶縁を言い渡されたのだ。
厨は完全に崩壊し、客はゼロになった。 そして、の終わり。 再び、千成の勝のに、が現れた。 今度は――煤けた物のスーツを着て、ぬぐいで汗を拭う、痩せこけた老がっていた。
父・源蔵だった。
「……芳子」
勝からてきた芳子を呼び止めた源蔵の声は、のあの声とは別のように、掠れて力なく震えていた。 背はさく丸まり、髪の混じったは酷くくなっている。の震えを隠すように、古びた革鞄を胸ので抱えていた。
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芳子はち止まり、く礼した。 「お父さん。いところを、わざわざどうされたのですか」
のような礼儀正しい挨拶に、源蔵は顔を歪めた。 「……帰ってきてくれ」 絞りすような言だった。
芳子はじず、喫茶へ案内することもせず、暗いのコンクリートので、父の目をじっと見据えた。
「……娘として、ですか?」
源蔵の喉仏がした。言葉が喉に閊えているのが見て取れた。 かつて「族の助けいをで計るな」「週で泣いて帰ってくる」と豪語した男のプライドが、最の抵抗を見せていた。 数秒の、息の詰まるような沈黙。 やがて、源蔵は目を伏せ、擦り切れた革鞄の具を震える指でした。
「……料理としてだ」
く、い敗の宣告だった。 源蔵が鞄から取りしたのは、かつて千代が持ち帰った、あのか条の便箋だった。 用の。 『宿主 藤原源蔵』の署名、そして――朱肉で鮮に押された、藤原の実印。
「おが言った通り、今の藤乃には板もおらん。客も来ん。……おが腕を振るってくれんと、潰れるしかねえんだ」 源蔵は便箋を両で芳子に差しした。その指先が、屈辱と焦燥で震えている。
芳子は受け取った面を、夕暮れの灯ので検分した。 実印の。にじみのない朱の輪郭。 、父に投げ捨てられ、踏みにじられた自分のの労働が、今、枚の契約となって形を結んだ瞬だった。
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しかし、芳子の顔に笑みは浮かばなかった。 勝利のも、優越もなかった。 ただ、プロの料理としての徹な覚悟が、胃の腑にすとんと落ちただけだった。
「分かりました」 芳子は便箋を丁寧に折りたたみ、の胸ポケットに収めた。
「契約は成しました。今末で千成を円満退職し、来から藤乃の料理責任者として着任します。……お父さん、宿主としての義務を怠らないでくださいね。私も、料理としての義務を完璧に果たしますから」
源蔵は何も言い返せず、ただ力なく頷いた。 夕の迫る阪の空の、父と娘のに横たわっていた「族という名の呪縛」が解け、対等な「契約関係」という名のたくも確かなが架けられたのだった。
昭、。 盛の陽が照りつける渋湯温泉の坂を、芳子はたったつのトランクを抱えてっていった。 ぶりの帰郷。 温泉の空気は変わっていなかったが、周囲の宿は軒並み鉄筋コンクリートの増改築を施し、「代ホテル」の板を誇らしげに掲げていた。 そので、藤乃の造瓦葺きの建物だけが、代の波に取り残された難破のように沈んで見えた。
ガラガラと引き戸をけると、帳の奥から千代が転がるようにてきた。 「芳子! 本当によく戻ってくれたねえ……!」 抱きつこうとする母に対し、芳子は歩引いて、丁寧にお辞儀をした。
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