"昭和53年、棟梁が俺を毎晩残した理由" 第3話
枚のやり直し
夜の稽古は鉋だけでは終わらなかった。棟梁は差しで直角をさせ、墨壺の糸を弾かせ、端材に鋸を入れさせた。昼は相変わらず掃除と運搬ばかりなのに、夜になるとかけて覚えるはずの仕事が、替わりで俺のへ積みがっていく。眠くて指がかなくなると、棟梁は「眠いで刃物を持つな」と具を取りげ、代わりに材のを見比べさせた。
ある晩、杉板を枚削っても枚も格しなかった。俺は握った鉋の台を作業台へ置き、「これ以やっても同じです」と言ってしまった。棟梁は鳴らず、枚の板を順に並べ、枚目と最の枚を俺の目のさへ持ちげた。
「最初の傷はい。最の傷は浅い。同じに見えるなら、も掃除だけしていろ」
俺は悔しくて唇をかんだ。叱られるよりも、自分がしは変わっていることを見抜かれたのが悔しかった。翌朝、掃除の途で屑をつ拾って透かしてみると、いところはを通さず、いところは障子のようにく見えた。その夜から俺は、何枚削ったかではなく、どこで刃がくなるかを覚えるようになった。
棟梁は鉋の刃を研ぐところも見せた。砥のへ膝をつき、刃の角度を崩さず往復させるきは、荒っぽい調から像できないほど静かだった。
広告
俺が真似をすると刃先が片寄り、棟梁は「具の悪さにするに、自分がどういたか見ろ」と言った。削る腕より先に、削れる状態を作るが必なのだとった。
研いだ刃を台へ戻すとき、棟梁は槌でほんのしだけ調した。俺にはその差が見えなかったが、板へ当ててみると削りが変わった。の力で押し切ろうとすると傷が増え、刃がうと軽い力でむ。自分の腕だけで仕事をしているつもりだった俺は、具の声を聞くというを初めて考えた。
の末には、のひらにさなぶくれが並んだ。つぶれたところへのが入り、湯につけると声がそうに痛んだが、棟梁には見せなかった。おさんは呂がりの俺を台所へ呼び、薬を塗りながら「そんなに急がなくても、は逃げないのにね」と独り言のようにつぶやいた。
「おさん、棟梁は俺が嫌いなんでしょうか」
問いかけると、おさんはを止めた。すぐに否定してほしかったが、彼女はしばらく薬の蓋を閉める音だけをて、「嫌いな子のために、あのが自分の夜を使うとうかい」と答えた。俺にはそのが分からず、ますます腹がった。
おさんは薬を塗り終えると、俺のを包帯でぐるぐる巻きにはしなかった。翌朝も仕事ができるよう、傷んだところだけを覆い、濡れたら替えるように言った。
広告
「無理をするのと、を事に使うのは別だよ」という言葉は、棟梁の「急ぐな」とよく似ていた。は似ていない夫婦だとっていたが、同じものを切にしているのかもしれなかった。
末、棟梁から帳面を冊渡された。そこには材の寸法や仕入れ先の名と並んで、俺の失敗が細かく記されていた。「杉板、逆目を読む」「墨、糸が緩い」「鋸、最に首が逃げる」と、俺自も忘れたことまでいてある。恥ずかしさで顔がくなったが、最の頁だけはで、に付と「次に覚えること」とかれていた。
「違いを覚えておけ。できたことより、できなかったことが次の仕事を教える」
その夜、俺は帳面を布団の脇へ置き、初めて自分から次の稽古の支度をした。ところが夜半、便所へった俺は母の廊で、棟梁が壁に片をついて息をえている姿を見た。声をかけるに背筋を伸ばしたあのは、いつもの顔で「さっさと寝ろ」と言った。
広告
おすすめ作品
-
完結第16話
昭和24年、帰還した夫の家に別の夫がいた
戦地から四年ぶりに帰還した清太を待っていたのは、妻・文子と見知らぬ夫、そして二人の幼い娘だった。「ここはもう私たちの家です」と告げられ、清太は自分が死者として扱われていたことを知る。 出征直前、文子の胎内にいた息子・浩はすでに八歳。しかし浩は母のもとではなく、山村の伯母夫婦に育てられていた。妻も家も息子も取り戻したい清太だったが、彼のいない四年間にも、それぞれが生き延びるために築いた暮らしがあった。 実父の清太、母と暮らす政男、自分を育てた伯父。三人の「父」を持つ浩を前に、清太は家族が奪い返すものではないと気づいていく。時代|歴史|昭和1.4万字5 8 -
完結第14話
昭和29年、夫を亡くした私から船が奪われた
夫を海難事故で失った翌朝、志津は3人の子どもを養うため、残された船で海へ出ようとした。だが漁協は鍵を取り上げ、義兄は告げる。 「船を使いたければ、長男をうちへ寄こせ」 女には魚を売らせない。船も網も夫名義。さらに借りた伝馬船まで奪われた志津は、自ら町を歩き、獲れた魚を一軒ずつ売り始める。 やがて見つかった古い領収控えには、船の手付金を払った志津の名前があった。しかし同時に、義兄が残金を貸していた事実も判明する。 船をめぐる権利と借金、そして11歳の息子の人生。何も持たないと見下された志津は、海ではなく「魚を売る場所」から、自分たちの暮らしを取り戻していく。時代|歴史|昭和2.1万字5 193 -
完結第14話
母の葬儀から戻ると、私の寝台はもうなかった
母の葬儀を終え、約束より1日遅れて工場へ戻った18歳の女工・春江。だが門前には私物の入った段ボール箱が置かれ、寮母は冷たく告げた。 「あなたの寝台は、もう別の子に渡しました」 無断欠勤を理由に自己都合退職を迫られ、給料まで大幅に差し引かれた春江。しかし明細には、故郷にいたはずの3日間、彼女が残業した記録が残っていた。 さらに、春江の寝台を与えられた15歳の少女は、彼女と同じ勤務番号で働かされていた。時代|歴史|昭和2.1万字5 164 -
完結第13話
父が開けた祝儀袋
昭和35年、結婚披露宴の最中、恭子は父が祝儀袋を次々と開けている姿を目撃する。豪華な宴も嫁入り道具も、すべて借金で用意されていたのだ。しかも婚家からは、「あなたの結婚のための借金」と返済まで迫られてしまう。 誰が望み、誰が支払うべき金だったのか。恭子が費用を一つずつ調べると、借入額には披露宴だけでは説明できない差額が見つかる。やがて明らかになったのは、父が娘の結婚と祝儀を利用して隠そうとした、もう一つの借金だった。 「家族のため」という言葉の陰で、誰かの人生や金を勝手に使ってよいのか。見栄と古い家族観に抗い、自分たちの暮らしを取り戻そうとする一人の女性の物語。時代|歴史|昭和|親子関係1.9万字5 197