"路線バスで来た父を笑った婚約者一家の誤算" 第4話
料亭『』の品定め
「お父さん!」 駆け寄ってきた美咲の姿に、庄はわず息を呑んだ。 淡い桃の綸子(りんず)に、品なが描きされた訪問着。かず子が娘の成式のために清の台からびりるいで誂え、切に桐箪笥に保管されていた着物だ。結いげた黒髪の襟に、き母の面が濃くなっていた。 「どうしたの、お父さん? 変かな……」 「いや、よく似っている。お母さんが見たら、違いなく泣いてんだだろうな」 美咲は照れくさそうに笑い、庄の背広の肩に付いていた糸屑を優しく払ってくれた。
料亭『』までは、駅通りを本入ったを歩いて分ほどだった。 敷を囲む黒板塀の脇には、巨なドイツ製の黒塗りが、駐枠の線をきくはみして傲にめられていた。体は鏡のように磨きげられ、の青空をギラギラとね返している。 「……あれが、健さんのお父様のよ」 美咲がどこか憂いを帯びた声で呟いた。 庄はそのを瞥したが、何も言わずにをくぐった。
打ちが施された畳を踏み、簾をくぐると、の着物を着た女将が(たたき)にをついて迎えてくれた。 「いらっしゃいませ。お待ち申しげておりました」 「島でございます。本はお世話になります」 庄がをげると、女将は瞬だけ目を見張り、庄の顔を凝した。
広告
だが、すぐに名旅館の女将らしい完璧な微笑みに戻り、「黒田様はすでにお見えでございます。どうぞこちらへ」と案内した。
通されたのは、入れのき届いた庭を望む畳の座敷『松の』だった。 のを背にした座には、すでに黒田夫妻と息子の健が陣取っていた。 父親の黒田社は、恰幅のいい体躯に沢のある舶来のスーツを纏い、腕にはこれ見よがしにのロレックスがっている。隣の夫は、毒々しいほど濃いの総絞りの着物にを包み、指先には粒のエメラルドの指輪が輝いていた。 健は両親の横で、どこか居悪そうに肩をすくめて座っている。
「遅くなりまして申し訳ございません。美咲の父の、島庄でございます」 庄は敷居ので正座し、くをげた。約束の正午より分もい到着だったが、相が先に座っている以、礼を尽くすのが庄の流儀だった。 しかし、黒田社は煙の煙をくゆらせながら、顎をしゃくっただけだった。 「ああ、黒田です。まあ、座ってください」
座に着いた庄は、膝のの呂敷包みを丁寧に解き、熨斗のかかった桐箱を両で差しした。 「ばかりの品ですが、どうぞお納めください。元の菓子の、栗蒸し羊羹でございます」 黒田社は箱に指本触れず、畳まれた藤の呂敷を笑いで眺めた。
「呂敷ねえ。今、化のようなものをお使いですな。田舎の方にしては、物持ちがよろしいことで」 夫もまた、扇子で元を覆いながらあざ笑う。 「羊羹ねえ……うち、甘いものは座の名ショコラティエのものしかいただきませんの。お医者様からも糖分は止められておりますし、困りましたわねえ」 「お母さん、失礼だよ……」 健が蚊の鳴くような声で窘めたが、夫が「事実でしょう?」と睨みすると、それ以は貝のようにを閉ざしてしまった。
座卓の真んに、付かずの羊羹がポツンと取り残された。 庄の胸の内に、たいが吹き抜け始めていた。
広告
おすすめ作品
-
完結第14話
十八年勤めた売り場を追われた日、恩返しが始まった
十八年間デパ地下を支えた契約社員・千鶴は、新店長から「高齢者の代わりはいくらでもいる」と突然解雇される。 だが、毎週安い弁当を買う老人の正体は、大手食品会社の会長。かつて倒産寸前だった彼の弁当を世に広めた恩人こそ、千鶴だった。職場逆転|退職金|金銭問題|修羅場1.9万字5 11 -
完結第20話
月30万円の親孝行は、誰の財布から?
夫から突然告げられた、義母への「毎月三十万円」の仕送り。妻・美奈子は反対せず、静かに「いいよ」と答えた。 三日後、銀行で残高四万円を知らされた夫は激怒する。だが美奈子は、二十二年間で家計へ補填した一千二百万円超の記録を並べ、「その三十万円、誰の収入から出すつもりだったの?」と問い返す。嫁姑|夫婦|介護|金銭問題2.8万字5 6 -
完結第15話
白米だけの夕飯を出されたので、家を出ました
年度末の仕事を終えて帰宅した麻子を待っていたのは、冷めた白米だけの夕食。夫と義母は特上寿司を食べながら、「反省したらおかずを出す」と笑った。 「外で牛丼でも食べてきたら?」という夫に、麻子は静かに「分かりました」と答える。しかし彼女は半年前から新居や弁護士の手配を進め、大切な荷物も運び終えていた。嫁姑|夫婦|第二の人生|修羅場2.0万字5 127 -
完結第20話
妻の予定表に書かれた「最終日」
妻の予定表に記された、結婚記念日の「最終日」。夫は離婚を疑うが、その言葉には、十四年間積み重なった妻の孤独が隠されていた。 毎年同じレストランに二人分の席を予約し、来ない夫を一人で待ち続けていた妻。彼女は今年を最後に、待つことをやめようとしていた。夫婦|真相|第二の人生2.8万字5 62 -
完結第16話
赤いガーベラと私の家
母の形見の絵を嫁に勝手に売られ、家事を当然のように押しつけられてきた50歳の愛子。限界を迎えた彼女は、母の保険金で購入した小さな家へ一人で移り住む。 ところが長男夫婦は、新居まで「実家」と決めつけ、家事をしてもらうつもりで強引に引っ越そうとする。愛子は荷物の受け取りを拒み、専門家の助言を得て、同居を認めない意思を書面ではっきり示す。 やがて母の絵は親切な購入者の手によって戻り、愛子は長男夫婦に「この家にあなたたちの部屋はない」と告げる。彼女が去った古い家では、夫も息子夫婦も、これまで愛子が背負っていた家事の重さを初めて知ることになる。兄弟姉妹|嫁姑|夫婦|相続|金銭問題1.6万字5 701 -
完結第20話
家族投票の三日後
お盆の親族会で、地味な事務員として働く美緒は、姉から「家族の投票で決めた。今すぐ出ていけ」と追放を宣告される。両親も親戚も、姉の婚約者も笑って賛成した。 しかし彼らは知らなかった。倒産寸前だった老舗旅館を救い、土地と建物を買い取った真の所有者が、美緒であることを。彼女が姿を隠して注ぎ続けた資金がなければ、旅館は一か月も維持できなかった。 美緒が援助を止めると、家族の浪費と巨額の不正支出が露見する。さらに姉の婚約者も、旅館の資産を利用して自社の損失を埋めようとしていた。そして三日後、華やかな結納の最中、執行官と弁護士が現れる。怒り|嫁姑|金銭問題|修羅場1.9万字5 1048 -
完結第21話
賞与0円を告げられたので、会社を辞めてイタリアへ
十七年間、海外調達を支えてきた玲奈に言い渡された年末賞与は、まさかの零円。評価は最高ランクのまま、翌年も重要なイタリア案件を任されていた。会社は住宅ローンを抱える彼女なら、どんな扱いをしても辞めないと考えていたのだ。 玲奈は怒鳴らず、記録を残して退職届を提出。家と車を手放し、亡き母の言葉に背中を押されてイタリアへ渡る。 ところが彼女の退職後、強引な一律値下げ交渉によって工房との信頼関係は崩れ、大型案件まで危機に陥る。三か月後、玲奈の携帯には人事、部長、社長から合計三百十二件もの着信が残されていた。職場逆転|第二の人生|金銭問題2.8万字5 1673