みかん小説
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"婿との温泉旅行で、仲居から渡された「逃げて」のメモ" 第1話

湯呑みに残った酒

「そのお酒には、どうかをつけないでください」

最の曜、信州のあいにある温泉旅館で、歳の桐正は、仲居から渡された切れを読み終えてけなくなった。夕までほどある階の客には、渓流の音が絶えなく届いていた。座卓には酒をなみなみと注いだ湯呑みが置かれ、婿の達也が仕事の話だと言って廊へている。つい先ほどまで、正はこの旅をき妻への産話にするつもりでいた。

は宿の伝票の裏をつに折ったもので、震えた字が並んでいた。〈お連れ様が話で「今夜酔わせてとの類に判を押させる。朝、業者を寄こす」と話していました。お客様のご自宅が狙われています。裏階段からお逃げください〉。末尾には、〈は用しました〉と添えられていた。読み返しても文字は変わらず、正の目は「と」の文字かられなかった。

達也は週、頃の謝を込めて温泉へ招待したいと言った。妻の吉をにくして以来、正がをしていないことを気遣い、わざわざ古い造旅館を選んでくれたのだ。朝は川越の自宅までで迎えに来て、も丁寧に話しかけてくれた。正は娘の美咲に、いい夫を持ったな、と言いかけたほどだった。

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正は度、部へ戻って達也を待とうかと考えた。直接聞けば、すべて誤解だと分かるかもしれない。だが、を渡した仲居はあれほど青い顔をしていた。もし達也の説が嘘だった、仲居が危険を冒したことまで無駄にしてしまう。正は自分のためだけでなく、見ずらずの相が差しした助けを信じるために、逃げる方を選んだ。

宿の部をる直、正は度だけき妻の名をので呼んだ。吉ならこんな、どうしただろう。きっとのままにるに、財布と鍵と逃げを確かめただろう。今の自分には財布がない。だがへ帰るために必なのは、まずこの部から無事にることだった。

しかし今、ひとつずついすと、気にかかることがあった。宿泊続きに必だと言って実印を持参させたこと、のでの相を尋ねたこと、客に入るなり酒を勧めたこと。達也自の湯呑みには酒がほんのししか入っていない。座卓のには、泊の旅には似わないい黒の類鞄が押し込まれていた。

正は浴の帯にを入れ、さな巾着のさを確かめた。実印はそこにある。き妻が端切れで縫ってくれた巾着に移し、肌からさなかったのだ。若い頃、親方から「判を押すには度考えろ」と教わった。

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その言葉を守ったおかげで、まだ何も署名していないし、何も渡していない。

廊の向こうから達也の笑い声が聞こえた。「ええ、今夜に片づきますよ」。いつもの柔らかな声が、正にはらない男のもののように響いた。ここで待って問い詰めれば、達也はきっと笑って誤解だと言うだろう。だが奥の旅館で、相のに乗ってきた自分には、帰るさえない。

正は荷物に触れず、羽織だけをつかんだ。部をるに、切れを巾着へ入れ、座卓の酒には指本触れないまま襖を細くけた。として、古いのがどこで鳴るかをの裏で覚えてきた。廊の柱際を選んで歩ずつみ、裏階段へ続く暗い角を曲がった。

階段のには、さなかりがついていた。そこにいた仲居は、正を見ると胸にを当てて息をつき、綿入れ半纏と履を差しした。「お話はあとで。今は、どうか急いで」。その声は必だったが、正にはまだ分からないことがあった。なぜ見ずらずの仲居が、職を失うかもしれない危険を冒してまで、自分を助けようとしているのだろう。

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