"花嫁のいない結婚式" 第3話
いドレスと捨てる過
別館の部に入り、カードキーを差し込むと、静まり返った内の灯りがパッと灯った。 正面のクローゼットの扉には、着用するはずだった純のウェディングドレスが、微かな埃すら寄せ付けない透なドレスカバーに覆われて吊るされていた。 繊細なフランス製レースを贅沢にあしらったAラインのドレス。 このドレスを選ぶときも、瞬は異様なまでのを見せていた。私が「しきやすいスレンダーラインのものがいい」と提案しても、彼は『駄目だ、が見えるチャペルには絶対にこのいトレーンのクラシカルなドレスじゃなきゃいけないんだ』と頑として譲らなかった。 今なら分かる。そのすべてが、の結婚式で使われるはずだった「野織の装」の焼き直しだったのだ。
私はドレスには指本触れず、部の隅に置かれていた型のハードスーツケースをに広げた。 の式の、そのまま週の程で太平のリゾートへ婚旅へ向かう予定だったため、私のパスポート、数週分の類、洗面用具、そして仕事用のノートパソコンは、すでに完璧にパッキングされていた。 私はドレッサーのに置かれていた私物を、無駄のないきで提げ鞄へと放り込んでいった。
広告
財布、分証、充器、そして会社から支されているスマートフォン。
作業をめながら、私の脳裏にヶの記憶が鮮に蘇っていた。 勤務先である品メーカー『オオトモフーズ』の役員で、国際発本部から直々に呼びされたのことだ。
『川さん、君のこれまでの商品企画の実績と、アジアに関するリサーチ力をく評価している。来からシンガポールの現支社で、アジア全域に向けた規ブランドのちげ責任者を務めてくれないか。君がずっとやりたがっていた仕事のはずだ』
それは、入社以来私が目標として掲げていた、願ってもないキャリアの躍台だった。 しかし、当の私は瞬との結婚を控えていた。瞬は『庭に入るとまでは言わないけれど、激務や張のい部署は困るな。俺を支えてくれる庭な妻でいてほしい』と常々にしていたのだ。 私は苦渋の決断の末、本部のでをげた。『申し訳ありません。結婚を控えており、庭を優先したいため、今回の辞令はお受けできません』。 あの、本部はくため息をつきながらも、温かい目で私を見つめて言ってくれた。 『事は分かった。だが川さん、このポストの最終決定は今末の取締役会まで私が保留しておく。もし……万が、君の気が変わるようなことがあれば、いつでも連絡しなさい。
広告
席が空いている保証はできないが、君のような優秀な材をみすみす放したくはないからね』
その「末の締め切り」が、奇しくも今、まさにこの夜だった。 瞬は私が赴任を断ったこと自体はっていた。だが彼は、私が『もともと語学にも自信がないし、勤務なんてガラじゃないから断った』という私の嘘を真に受けていた。彼のために自分の血を吐くようないでキャリアを切り捨てたことなど、彼は像すらしていなかったのだ。
「……守る価値なんて、最初からなかった」
私はスーツケースのジッパーを気に引き絞り、京錠のカチリという属音を響かせた。 部のには、瞬がぶとって買っておいたペアルックの部着や、式から持ち帰った席次表の束がそのまま残されている。百のゲストの名が印刷されたその片は、、巨な混乱と醜聞の証拠品へと変わるだろう。
私はスマートフォンを取りし、夜であることも構わず、実の母へ通話を発信した。 ワンコール、ツーコール。回目で、し掠れた母の声が元に届いた。 『……もしもし、由? どうしたのこんなに。は朝から着付けでしょう?』
私はく息を吸い込み、横隔膜を押しげて震えを止めた。 「お母さん。夜分に本当にごめんなさい。……の式、私、ないことにした」
受話器の向こうで、ヒュッという息を呑む気配がした。 数秒の静寂。母は、取り乱して理由を問い詰めるような真似は決してしなかった。昔から私の性格を誰よりも熟している母は、私が度にした言葉を絶対に撤回しないことをっていたからだ。 『……何か、取り返しのつかないことがあったのね? 今、全な所にいるの?』 「うん。ホテルの部にいる。これから荷物を持ってるわ」 『分かったわ。由がそう決めたなら、それが正しいのよ。親族への連絡やお父さんへの説は全部私が引き受けるから、あなたは自分のことだけを考えなさい。おはあるの? 追はかかってない?』 母の揺るぎない、く落ち着いた声に、目奥に溜まっていた涙がく滲みそうになった。だが、私は爪をのひらにい込ませて耐えた。泣くのは、すべてを終わらせてからだ。 「ありがとう、お母さん。で必ず連絡する」
通話を切り、私は提げ鞄とスーツケースを両に持ち、部の鍵をフロントへ預けることもせず、非常階段を使っての通りへと抜けした。
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
車いすの恋人に請求された三万三千円の「迷惑料」
交通事故で車いす生活となった恋人・明菜と、もう一度穏やかな日常を取り戻そうとしていた聡。明菜の誕生日、二人は思い出のフレンチレストランを訪れる。しかし待っていたのは、食事時間の一方的な短縮と、三万三千円もの「迷惑料」だった。因果応報|人生逆転|真相|修羅場2.8万字5 97 -
完結第10話
すり替えた味噌汁
検事任官の最終面接を迎えた朝、神田玲奈は義母が自分の味噌汁に何かを混ぜる姿を目撃する。夫にも相談できないまま、玲奈は不審な味噌汁を密かに保管し、何食わぬ顔で食卓に戻った。同じ日、義妹の彩佳も三度目の教員採用試験に挑もうとしていた。玲奈が彩佳と味噌汁の椀を交換した瞬間、義母は血相を変えて叫び出す。嫁姑|第二の人生|金銭問題1.4万字5 9 -
完結第18話
「少しくらい困ればいい」母をSAに置き去りにした夫の本当の狙い
家族旅行の帰り道、夫の雅人は、足の悪い七十四歳の義母・澄江をサービスエリアに置き去りにした。「少しくらい困れば、次から早くなる」。息子まで夫に同調する中、妻は必死に母を捜す。ところが、母のバッグから見つかったのは、本人が知らない老人ホームの入居申込書だった。さらに、夫が管理していた母の預金、身に覚えのない介護記録、そして車内カメラに残された会話から、旅行そのものが仕組まれていた疑いが浮かび上がる。夫婦|親不孝|第二の人生|親子関係|金銭問題2.3万字5 115 -
完結第10話
残高ゼロの通帳
経理主任として働く三十九歳のゆきは、同居する義母から突然、給与明細を突きつけられる。「月四十万円も稼いでいるなら、通帳は私が管理するわ」。勝手に給料の使い道を決められ、夫に助けを求めても返ってきたのは「母さんに任せれば楽だろ」という言葉だった。ついに「嫌なら出ていけ」と言い放たれたゆきは、抵抗するどころか、笑顔で通帳を差し出す。しかし、その夜、彼女は誰にも知られず一つの手続きを済ませていた。嫁姑|夫婦|第二の人生|金銭問題1.5万字5 70 -
完結第23話
孫に「ここに居たければ黙れ」と言われた私が、翌朝家を出た理由
七十二歳の幸子は、亡き夫と建てた家で息子夫婦と孫の蓮斗と暮らしていた。学費も生活費も援助し、家事まで引き受けてきたのに、いつしか家族から「居候」のように扱われるようになる。ある夜、孫に胸ぐらをつかまれても、息子は助けてくれなかった。翌朝、幸子は弁当も朝食も作らず、黙って家を出る。しかし家族はまだ知らなかった。人生逆転|祖父母と孫|第二の人生|ATM扱い|絶縁3.1万字5 136 -
完結第18話
誤爆LINEの夜
結婚六年目。妻の明子に勧められ、出張前夜をホテルで過ごすことにした直人。ところがチェックイン直後、妻から「今日旦那いないから、いつもみたいにイチャイチャしよ♡」というLINEが届く。慌てて削除されたメッセージに不信感を抱いた直人は、何も知らないふりをして自宅へ戻る。夫婦|裡の顔|修羅場|不倫2.0万字5 116 -
完結第16話
四万円を断った朝
同僚に裏切られ、二千万円近い借金を背負った大橋拓人。再就職の面接へ向かう朝、雨の道路でパンクした車を見つけ、遅刻を覚悟でタイヤを交換する。女性から差し出された四万円を断り、代わりに面接先まで乗せてもらった拓人。しかし会社に到着すると、受付の社員たちが彼女に深々と頭を下げた。職場逆転|人生逆転|真相|修羅場2.5万字5 44