"赤ペンで消した夫" 第2話
託された原稿と穏な量
夕を終え、子が際よく陶器の器を洗い桶に沈めていた、居のソファから擦れの音がした。 革張りのブリーフケースの具がパチンとれる鋭利な音に続き、也が分いの束をに持って台所へづいてきた。 「子、しを止めてくれるかい。急ぎで君の目を通してもらいたい案件があるんだ」
子は蛇を締め、清潔な布巾で両を拭いながらダイニングテーブルへと戻った。 也がテーブルの央に滑らせてきたのは、百字詰め原稿用にしておよそ百枚、クリップで仮留めされた真しい力の束だった。 表にはまだ正式な題名すらなく、ただマジックペンで『仮題・の氷解』とりきされ、その横につの名が記されていた。
――朝倉希(あさくら・みずき)。
「の方?」 「ああ。まだ歳の無名だがね」 也がその名をにした瞬、子の鼓膜が微かに震えた。 声のトーンが、半音ほど擦っている。 、夫の些細な呼吸やの起伏を隣で見つめ続けてきた妻にしかできない、極めて微な変化だった。 鏡をした也の双眸には、いつもの徹なビジネスマンのではなく、若く危険なの残りのようなものが、々しく揺らめいていた。
「今度のうちの文学賞で、満致で賞に推される能性が極めてい原だ。
広告
選考会は来だが、僕が自ら直轄で担当することになった。社運を賭けて、々に売りすつもりだ」 「歳……随分とお若い方なのね。どんな作なの?」 「純説だよ」 也はを乗りし、を帯びた調で畳み掛けた。 「だが、巷に溢れているっぽい携帯説やライトノベルとは次元が違う。の輪郭が々しく、剥きしの言葉が読者の胸を容赦なく抉ってくる。性の力というべき荒削りな輝きがあるんだ。……ただ、いかんせん若い。原稿用の基本なルールすら怪しいし、語彙の選択や章ごとの構成に致命な粗さが残っている。文章の基礎がまるでできていないんだ」
也は元にある原稿の束を、おしげに両のひらで撫で回した。 そのつきに、子の胸の奥でさな針がチクリと刺さるような違がる。 「だからこそ、君の正確無比な赤字が必なんだ。この原のを落とし、完璧な芸品に磨きげられるのは、社内広しといえども子、君しかいない。君の正力で、この作品を完璧なものにしてやってほしい」 「……分かったわ。の朝から取りかかるわね」 「助かるよ。彼女の才能を世にらしめるためには、どうしても君の裏方としての力が必なんだ」
也は満げに息をつき、原稿を子の元へと押しやると、シャワーを浴びるためにちがった。
広告
浴から漏れ聞こえてくる湯器の作音を聞きながら、子はテーブルに残されたの束にそっと指先を触れた。 まだ複のが完全にめきっていない、械油とトナーの匂いが腔を突く。 夫の言葉に偽りはないだろう。彼は編集者として、子の正技術を誰よりもく評価している。 だが――あの異様な気は何だったのか。 の才能に惚れ込んだベテラン編集者、という枠組みをらかに逸脱した、あの湿り気を帯びたっぽい瞳。 言葉の端々に滲みていた、過剰なまでの庇護欲と陶酔。 子は胸のに広がった穏なを振り払うように、原稿の束を抱えて仕事部へと戻った。
夜半。 寝からは、激務に疲れ切った也の規則正しい寝息が聞こえていた。 子は仕事部のスタンドライトを灯し、鏡を掛け直して『の氷解』の第ページ目をめくった。 には、いつも通りの赤い万。
読みめて数ページで、也の言っていたが氷解した。 確かに、理描写の切れは凄まじいものがあった。若い女性特の過敏な自識、者への渇望と嫌悪が、剥きしのパッションとなって面からちってくる。 だが同に、文章の台は酷く脆だった。 助の自然な連続、主語と述語のねじれ、同じ形容の執拗な反復。
子は静に、械なまでの正確さで、その稚拙な乱れを赤インクで削ぎ落としていった。 まるで、がのままに散らかした部を、を交えずに片付けていく清掃のような作業だった。 若く未熟なが撒き散らしたの残骸を、の本妻が黙々とえ、美しく仕て直していく――そんな歪な構図が脳裏をよぎり、子は自嘲気に元を歪めた。
だが、作業が盤――物語全体の分のを過ぎた第ページに差し掛かっただった。 物語は、主公の男女が世の目を逃れ、の箱根へと密やかな旅にかける面へと移っていた。 肌を覆うい、硫黄のち込める湯煙、そしてきりの密を描写する節に差し掛かった瞬。
子のが、ピタリと静止した。 赤万の鋭利な切先が、原稿用のマス目ので、宙に浮いたまま微だにしなくなった。
広告
おすすめ作品
-
完結第10話
泥の作業着と誇り
高校卒業から十七年ぶりの同窓会。咲は、夫が農家だと話した途端、華やかな暮らしを自慢する同級生のレナから大勢の前で笑いものにされてしまう。「泥だらけの旦那なんて恥ずかしくないの?」心ない言葉に傷つきながらも、咲は「世界一自慢の夫よ」と言い返した。やがて、仕事帰りの夫・大地が泥のついた作業着で迎えに現れると、再び嘲笑が巻き起こる。しかし次の瞬間、幹事の西村が顔色を変え、夫に向かって深々と頭を下げた。誰も知らなかった大地の本当の姿が、少しずつ明らかになっていく。人生逆転|夫婦|真相|第二の人生|修羅場1.7万字5 0 -
完結第18話
離婚翌日、父と食事中の私を「また金持ちに寄生か」と笑った元夫の末路
結婚生活のすべてを一円単位で折半しながら、家事だけは妻に押しつけていた夫・亮介。「お前は寄生虫だ」と離婚を突きつけられた綾乃は、静かに別れを受け入れた。 その翌日、実父と高級ホテルで食事をしていると、偶然現れた亮介と不倫相手が「もう次の金持ちを捕まえたのか」と嘲笑する。因果応報|夫婦|真実|金銭問題|修羅場|不倫1.9万字5 12 -
完結第10話
産後七日目の決別
帝王切開からわずか七日。傷の痛みと貧血に苦しむ真帆に、夫の直人は「産んだ人が自分で育てればいい」と冷たく言い放った。生まれたばかりの娘を守るため、真帆は実家へ避難する。ところが直人と義母は、彼女を「産後うつで勝手に家出した妻」に仕立て上げ、親族に嘘を広め始めた。追い詰められた真帆は弁護士に相談し、あの日の暴言が記された助産師の記録を手に入れる。そして、夫の勤務先から届いた一通の回答書が、直人の主張を根底から覆そうとしていた――。夫婦|裡の顔|修羅場|不倫1.9万字5 5 -
完結第14話
夫のいない四日間
人気ミステリー作家の安田里美は、無職の夫・博之と七歳の娘を養いながら、仕事も家事も一人でこなしていた。ある深夜、夫のスマートフォンに届いたメッセージから、博之が高校時代からの親友・裕子と不倫していることを知る。しかも二人の豪遊費は、里美の書斎から盗まれたクレジットカードで支払われていた。娘を思って離婚をためらう里美だったが、七歳の美香が口にした言葉で決意を固める。そして夫が裕子と沖縄へ旅立った朝、里美はカード会社と引っ越し業者に電話をかけた。さらに、夫の荷物には思いがけない届け先が指定されていた――。夫婦|親子関係|不倫2.0万字5 193