"出征前夜、夫から突然の離縁状――日記に隠された本心" 第2話
たいの湯
野での暮らしは、静かだった。
叔母のでは、朝起きれば誰かの用事が待っていた。「キヌ、湯を沸かして」「キヌ、これを洗って」「キヌ、買い物へっておいで」。卓についても、しを止めればすぐに次の仕事を言いつけられた。それに比べれば、野には驚くほど音がなかった。
淳さんは朝くかけ、夕刻に帰ってくる。帰宅が遅くなるは、必ずに「は遅くなります」と伝えた。夕がらないも同じだった。私はその律儀さを親切とはわず、単に軍らしいなのだろうとっていた。
けれど議なことがいくつかあった。
嫁いでもないころ、私は以と同じように朝番に井戸へ向かった。のは骨まで染みるほどたい。桶にを入れる覚悟をして蓋をけると、瓶のに入っていたのはぬるい湯だった。
最初はの残り湯かとった。
翌も、その翌もそうだった。
洗濯桶には必ず、を入れても痛くない程度の湯が用されている。炊事の隅にはさな薬缶も置かれ、えた指を温められるようになっていた。
「お隣の奥さんがやってくださっているのかしら」
そうって尋ねてみたが、隣の志乃さんは首を振った。
「私じゃないよ。野さんのへ勝に入れるわけないでしょう」
では誰なのか。
広告
淳さんに聞こうかとったが、にできなかった。
夫は相変わらずよそよそしかった。事のもほとんど黙っている。ただし、私の料理に文句をつけたことは度もない。し焦がした魚をしてしまったにも、「うまいです」と言って全部べた。
ある晩、私が針仕事をしていると、淳さんが帰ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
私はちがろうとして、指先を針で刺した。
「痛っ」
ほんのさな声だったのに、淳さんはすぐこちらを見た。
「どうしました」
「何でもありません。し針が」
淳さんはしばらく私の指を見ていた。そして自分の懐からい拭いをし、「使ってください」と差しした。
「こんなことで汚してしまいます」
「構いません」
それだけ言うと、また目を逸らした。
やはり議なだった。
親切なのか、たいのか、私には分からなかった。
それから数、私はいつもよりく目を覚ました。まだ空が青くなるで、鶏の声さえ聞こえない。喉が渇き、台所へ向かうと、でかすかな音がしていた。
井戸の方だった。
そっと障子をけると、い息を吐きながら淳さんがっていた。
片には桶。もう片方には、竈で沸かしたばかりの湯が入った薬缶を持っている。淳さんは瓶に井戸を入れ、そのからしずつ湯をし、で温度を確かめていた。
広告
「旦様……」
私が声をかけると、淳さんの肩がわずかにねた。
「起きていたんですか」
「毎朝のお湯は、旦様が?」
返事はなかった。
けれど否定もしなかった。
「どうして……」
ようやく淳さんが私のを見た。
「が荒れていたから」
それだけだった。
「でも、旦様の方がく起きなければなりません」
「私は慣れています」
「だったら私も――」
「あなたは慣れなくていい」
わず顔をげた。
淳さんも、自分が何を言ったのか驚いたようだった。すぐに線を逸らし、空になった薬缶を持ちげた。
「えます。へ」
そして私の横を通り過ぎていった。
私はしばらくそのにっていた。
瓶からは細い湯気がっていた。
嫁いでから初めて、胸のにさな疑問がまれた。
このは、本当に私を嫌っているのだろうか。
そのから私は、淳さんのさな仕を以より見るようになった。
私がい米俵をかそうとすると、翌朝には所が変わっている。台所の戸が軋めば、いつのにか直されている。の、私が買い物へこうとすると玄関に傘が本並べられている。
けれど、直接優しい言葉を言われることはなかった。
私の名さえ、淳さんは度も呼ばなかった。
私はそれでもよかった。
なくとも、叔母のにいたころとは違う。
ここでは誰も私を鳴らない。働きがりないと責めない。
卓では私の分の魚も、同じきさだった。
そんな当たりのことが、私には嬉しかった。
そして私はしずつい始めていた。
いつかこのが、私の名を呼んでくれるが来るのだろうか、と。
しかし、その。
玄関先に届けられた通の封が、そのささやかな願いを打ち砕いた。
広告
おすすめ作品
-
完結第20話
7年伸ばした髪を妹に切られた日、婚約者まで笑った
七年間大切に伸ばしてきた髪を、妹の美緒に突然切り落とされた凛。ところが両親も婚約者の修も、泣きそうな彼女を見て笑うばかり。それどころか、凛が泣き出すまでの時間を賭けていた。 長年、家族のために自分の希望を諦めてきた凛は、ついに婚約を破棄し、遠く福岡への転勤を決意する。 だが、彼女が去ったあと、家族が遊び半分で撮影していた動画から、思いがけない事実が明らかになっていく。 失った七年間を取り戻すように、新しい人生を歩み始めた凛。彼女を笑い続けた人々を待ち受ける結末とは――。因果応報|人生逆転|嫁姑|夫婦|真相|第二の人生2.9万字5 6 -
完結第16話
義実家同居を勝手に決めた夫、私は別の新居へ引っ越した
結婚七年目の栗原早苗は、夫・正吾から突然、義実家での同居を告げられる。相談もなく決められた引っ越しに加え、義母からは朝食作りや洗濯、義父の弁当まで押しつけられることに。 何度反対しても、夫は「そのうち慣れる」と聞く耳を持たず、勝手に今のマンションまで解約してしまう。 追い詰められた早苗は、夫に内緒で自分だけの新居を契約。そして迎えた引っ越し当日、二台のトラックが別々の住所へ向かう。 義母からの三十件を超える着信。何も知らない夫が「荷物は全部運んだよな?」と尋ねたとき、早苗の静かな反撃が始まる。裡切られた|嫁姑|夫婦|金銭問題|修羅場2.1万字5 39 -
完結第20話
昭和46年、優勝した妻に夫が告げた「帰るな」
昭和46年、大阪。48歳の主婦・榎本春子は、町内のボウリング大会で男性たちを抑え、見事優勝を果たした。しかし夫・信夫から返ってきたのは祝福ではなく、「そんなに好きなら、もう家には帰るな」という冷たい言葉だった。 小さな鞄を手に家を出た春子は、同じように自分の時間を持てなかった女性たちのため、ボウリング教室を始めようとする。 ところが、会場の予約に夫の会社が割り込み、申込書には身に覚えのない「本人了承済み」の文字が。 妻として、母として生きてきた春子が、初めて自分の人生を選び直す。昭和のボウリングブームを背景に描く、再出発の物語。時代|歴史|昭和2.8万字5 34 -
完結第20話
四十九日の絶縁
夫を突然亡くした三十七歳の裕子。悲しみに暮れる間もなく迎えた四十九日法要の日、帰宅した彼女を待っていたのは、ゴミ捨て場に放り出された自分の荷物だった。「息子が死んだら嫁は赤の他人よ!」そう言い放つ姑は、さらに幼い二人の子供まで裕子から引き離そうとする。だが、姑が三歳の息子だけを異常に可愛がる裏には、恐ろしい計画が隠されていた。子供たちを守るため、裕子は静かに反撃の準備を始める。そして数か月後、助けを求めて電話してきた姑に、裕子が告げた言葉とは――。人生逆転|裡切られた|嫁姑|夫婦|相続|裡の顔|介護2.3万字5 1610 -
完結第20話
「息子が高熱なのに来い!」夫一家に185万円の請求書を押しつけられた私の正体
夫と義家族から「何もできない専業主婦」と見下され、金銭まで搾り取られてきた松岡美央。しかし彼女には、世界的なホテルグループの最高責任者という、誰にも明かしていない秘密があった。ある夜、高熱を出した息子を看病していると、義母から三十件以上の着信が届く。「緊急事態だから今すぐ来なさい!」慌ててホテルへ駆けつけた美央を待っていたのは、豪華な食事を楽しむ夫一家と、185万円もの請求書だった。裡切られた|怒り|嫁姑|夫婦|親子関係|修羅場2.6万字5 1876 -
完結第10話
元夫に投げつけられたカード、残高は一億五千万円
「もう二度と、俺の前に現れるな」離婚の日、夫の大地に冷たく突き放され、ひな子は六歳の息子とともに家を追い出された。渡されたのは、養育費を振り込むという一枚のキャッシュカードだけ。ひな子はそれを封印し、工場で働きながら必死に息子を育ててきた。三年後、口座を解約するため銀行を訪れると、なぜか支店長自らが現れ、特別応接室へ案内される。通帳に記されていた残高は、なんと一億五千万円。さらに差し出されたのは、元夫の筆跡で「ひな子へ」と書かれた一通の封筒だった。あの日の冷酷な離婚には、誰も知らない秘密が隠されていた――。夫婦|真実|第二の人生|金銭問題|熟年離婚1.6万字5 994 -
完結第22話
大正十四年、卒業式で制服を脱いだ三十七人――母の署名に隠された秘密
大正十四年、信州の私立女学校。卒業を控えた小林操は、式服の代金を払えない七人の同級生が、記念写真から外されると知る。卒業式当日、三十七人の少女たちは一斉に紺色の上衣を脱ぎ、学校の決定に抗議した。しかし校長は卒業証書の交付を拒否。さらに、式服を仕立てた十二人の女性たちにも賃金が支払われていないことが明らかになる。しかも、学校の注文が取り消された場合の弁償書には、操の母の署名があった。友人を守るための行動が、なぜ母たちの暮らしを脅かすことになったのか。時代|歴史|昭和3.0万字5 282