みかん小説
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"磨かなかった靴" 第1話

磨けない靴

「おい、坊主。こいつをらせてくれ」

男が台へ乗せたを見たとたん、健太の指から磨き布が滑り落ちた。黒い革靴の踵には、茶の糸が本、し曲がってっている。補修の縫い目が途で度だけ斜めになり、そのに、さな釘のがつ並んでいた。野駅裏の通りは朝から騒がしかったが、健太には急に声がくなったようにじられた。

「どうした。くしろ。円でいいか」

男は篠田貞蔵といった。戦から雑貨の卸を営み、焼け跡に建ち始めた倉庫やをいくつも持つ。駅のくでは、篠田に逆らって商売を続けるのは難しいと噂されていた。仕てのよい背広の裾から覗くその靴は、だけがまだしい艶を残していた。

「……磨けません」

「何だと」

「その靴だけは、磨きません」

歳の健太は磨き台のにを置き、そう繰り返した。篠田はしばらくの顔を見たあと、で笑った。「客を選ぶような分か。ここが誰の世話で使えているとっている」。健太が答えないので、男は靴を台からろし、横に置かれた箱を蹴った。ブラシ、使い古した空き缶、わずかな靴墨が畳に散った。

磨き台からつれた所で働く信吉が駆け寄った。「すみません、この子は寝てないもんで。僕が磨きます」。篠田は男の顔を覚えるように眺め、それから「もここにをせるとうなよ」

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と言い残して歩きった。健太は散らばったブラシを拾おうとしたが、が震えて本もうまくつかめなかった。

「馬鹿野郎。なぜ黙って磨かなかった」。歳の信吉の声は、りよりも恐れにかった。健太は釘のの数を指で示す。「兄ちゃんの靴なんだ」。信吉は眉をひそめた。「似た靴なんか幾らでもある」。だが健太は首を振った。「踵を縫ったのは俺だ。途で糸がれて、斜めになった。兄ちゃんが、本目の釘をそこに打てって言ったんだ」

、空襲のあとにを寄せたで、兄の俊は拾ってきた靴を繕っていた。健太には針を持つのも難しかったが、兄は何度も教えてくれた。修理を終えた晩、で片ずつ履いて歩き、音の違いを笑ったことまで覚えている。やがてんでいたをれ、混乱した駅で兄とはぐれた。探し歩いても見つからず、健太はこの、自分に分かる目印だけを頼りにきてきた。

「だったら、持ち主に聞けばよかったじゃないか」。信吉が言うと、健太はようやく顔をげた。「あのが履いてる理由を聞くに、靴をきれいにしちまったら、何か消える気がした」。自分でもうまく説できなかった。汚れのに兄の歩いてきたが残っているとはわない。ただ、兄の靴をのでらせることだけはできなかった。

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彼らが寝泊まりしているのは、焼け残った建物の裏側にある空き部だった。根の隙からが入るため、古聞を敷き、仲で肩を寄せて眠る。靴磨きの稼ぎは事と鹸、寒い夜に使う炭の代わりとなるくずに消えた。それでも自分の稼いだ銭で握り飯を買えるは、健太はしだけ胸を張れた。

昼過ぎ、駅の詰所から係員がやって来た。は彼らがいつも挨拶する塚本だったが、今だけは顔が固い。「駅通の理をする。からこの所での営業は認められない。掲示がるから従ってくれ」。信吉がいがった。「そんな、からなんて」。塚本は「から計画のあったことだ」と答えたが、線をそらした。

夕方、の札にかれた告示が通の角へった。健太の箱には、蹴られてじた割れ目が残っている。信吉は割れ目を縄で縛りながら、皆へ言った。「は別の所を探す。誰も篠田のへづくな」。健太が何か言おうとすると、仲の利夫がい声をした。「兄さんのことでも、あの靴のことでも、もう調べるな」。

利夫は歳で、半ほどから緒に働いているだった。普段は数がなく、腹が減るとよくう。それが今は、誰かに見つかるのを恐れるように背を丸めていた。健太は初めて尋ねた。「お、あの靴をってるのか」

。利夫は答えず、もう使えなくなった磨き布を握りしめた。

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