"疎開から戻った娘が、再び村へ帰りたがった理由" 第1話
野駅の再会
「お母さん、わたし、あのへ帰りたい」
そう言われたのは、ようやく娘を京へ連れ戻して目の夕方だった。
昭。野駅の改札で幸子を見つけたとき、文は、もう何も望まないつもりだった。煤けた柱のから、使い古した柳李を抱えた娘がこちらを見る。歳になった幸子は、より背が伸び、頬がに焼けていた。文は波を押しのけ、娘を抱き締めた。
「よかった。よく帰ってきてくれたね」
幸子の肩は細かったが、は驚くほどかった。で薪を運び、芋を掘ったためだろう。文が顔をのぞき込むと、幸子は「ただいま」と言った。それきり、笑わなかった。
、幸子は京の国民学から野へ集団疎した。発の、文は駅のホームで赤い糸を縫い付けた袋を持たせ、「寒くなったらこれをしなさい」と言った。を越し、を越し、京は焼かれた。夫の庄はの空襲でくなった。も失った。文は親類を頼り、やがて焼け残ったの畳半を借りた。
夫のを幸子へらせるは、何度もき直した。疎先の先と相談し、結局、になるまで詳しい事を伝えられなかった。その、幸子は父へ宛てたをき続けたという。
しいまいまでので、幸子は瓦礫の積まれた角ごとにち止まった。
広告
以、父に連れていってもらった菓子がない。いつもを汲んだ井戸も埋められていた。文が「あそこは今、共同の炊事になったよ」と説しても、娘は「うん」と答えるだけだった。
畳半には箪笥がつ、布団が組、さなちゃぶ台がある。文の仕事具である針箱と裁ち板が壁際を占め、寝るときには移さなければならない。窓には破れた障子の代わりにがねてあった。
「狭いけど、で暮らせる。今度こそ、ずっと緒だよ」
文はわざとるく言った。幸子は母の顔を見ずに、畳の目を数えていた。
初の夕は麦飯と根の汁だった。文は娘の椀に自分の分をしした。幸子はそれを見つけると、箸を止めた。
「お母さんのが減るよ」
「お母さんは分べたから」
「そういう言い方、のふさおばさんもしてた」
初めて聞く名だった。疎、幸子が世話になった農の女らしい。文が「あちらのは親切だったんだね」と言うと、幸子はようやくうなずいた。
翌から文は針仕事へ戻った。焼け跡の町ではしいなどに入りにくい。破れた袷を単へ仕て直し、兄の背広を弟の着に直す仕事が続いた。客のを回って注文を集め、夜は裸球ので縫った。縫いげなければ賃が払えない。
幸子は黙って洗い物をした。母が夕方戻ると、洗濯物をきれいに畳み、針に糸を通して待っていた。
広告
ありがたいはずなのに、文は落ち着かなかった。娘を帰してもらったのは、事をさせるためではない。
目、文は夕にさな薩摩芋を添えた。幸子は芋を半分残し、突然言った。
「お母さん、わたし、あのへ帰りたい」
針の先が文の指を刺した。血が滴、い布に落ちた。
「何を言ってるの。帰ってきたばかりでしょう」
「くいなくてもいいの。ちょっとだけ」
「そのちょっとの汽賃だって、今は変なんだよ」
幸子は膝ので拳を握った。「わかってる」とさく言う。その言い方が、文には余計につらかった。
「迎えにくために、お母さんがどんなに苦労したとってるの」
言った直、文は悔した。幸子の目が、何かを静かに閉じるように伏せられたからだ。
その夜、幸子は李をかなかった。布団に入っても、枕元に置いて眠った。文は娘の寝息を確かめながら、自分の言葉を何度もい返した。帰ってきてほしかったはずなのに、帰りたいと言う娘へってしまった。
夜更け、窓の隙から気が入り込んだ。幸子が寝返りを打ち、寝言のように言った。
「千代ちゃん、待ってて」
文は初めて、その名を聞いた。
広告
おすすめ作品
-
完結第16話
「嫁は廊下で寝ろ」私が二度と帰らなかった理由
33歳の藤崎恵里は、夫の母を気遣い、義実家での一年間の同居を受け入れた。しかし、優しかった義母の態度は次第に豹変。洗濯物、食器、私物まで次々と居場所を奪われ、ついには仕事から帰った夜、布団を廊下に出されてしまう。 「嫁はここで寝ればいい」 夫まで義母に味方する中、恵里は静かに家の鍵を置き、二度と戻らないと決意する。実は彼女には、家族が知らないもう一つの顔があった。 翌朝、仙台にいる義父から一本の電話が。そして38年前、同じ廊下で起きた出来事が明らかになり、家族の関係は思いがけない方向へ動き始める。因果応報|嫁姑|夫婦|第二の人生|親子関係|金銭問題2.1万字5 239 -
完結第13話
杉原千畝の査証を得た一家、母だけが出国できない
一九四〇年、リトアニア。故郷ポーランドを追われた十六歳のミラは、両親と弟とともに、杉原千畝が発給した日本の通過査証を手にする。しかし、それは長い逃避行の始まりにすぎなかった。 足りない旅費、次々と求められる書類、そして母の名前に生じた一文字の食い違い。ようやく出国の道が見えた時、許可されたのは家族四人のうち三人だけだった。 母を残して出発するのか、それとも全員で待つのか。見知らぬ人々の小さな善意に支えられながら、一家は生き延びるための道を探していく。 杉原千畝の「命のビザ」の史実を背景に描く、家族と希望の物語。時代|歴史|昭和2.7万字5 0 -
完結第20話
磨かなかった靴
昭和23年、上野駅前。靴磨きで生計を立てる十三歳の健太は、町の有力者・篠田が差し出した革靴を見た瞬間、磨くことを拒んだ。その踵には、三年前に生き別れた兄と一緒に縫った、忘れられない傷跡があった。 篠田の怒りを買い、仕事場を失った健太は、仲間たちと暮らしを立て直しながら兄の行方を追い始める。ところが調べるうちに、少年たちの年齢を偽った労働書類と、行方不明の兄の不可解な署名が浮かび上がる。 焼け跡の町で、一足の靴を手掛かりに隠された真実へ近づく少年の、勇気と再生の物語。時代|歴史|昭和|兄弟姉妹2.8万字5 124 -
完結第13話
昭和21年、米を没収された母が引き返した理由
昭和21年秋、食糧難の大阪。三人の子どもを育てる森川澄子は、大切な着物と引き換えに手に入れた二升の米を、買い出し列車で警察に取り上げられてしまう。途方に暮れる母へ、十歳の息子が告げたのは、米袋の中に隠された小さな鉄の箱の存在だった。次の駅で引き返し、警察に事情を話した澄子。しかし、その箱に刻まれた三本の稲穂の印は、母子寮から消えた救援物資と、夫が隠していた仕事の秘密へとつながっていく。家族の生活さえ脅かされる中、一人の母親がたどり着く真実とは――。時代|歴史|昭和|真相2.7万字5 81