"返せなかった六百二十円" 第5話
の名で刷られた
、京の町には再びがった。台湾やいくつものの休業が伝わり、々はより切迫した顔で預の引きしへ向かった。信用神田張所にもからが押し寄せ、くの交番から警官が交通理に来た。
美佐は帳簿係の机で、昨の入を照らしわせていた。元の数字はどれも正しい。しかし扉のでは、正しい数字がどう役つのか分からないほど々がに包まれていた。森崎は朝礼で「営業は続ける。決して憶測で話を広げるな」と命じた。その言葉を聞く員たちの表も疲れきっていた。
午ごろ、を握った女主が窓で叫び始めた。「ここに、預はいつでも全額払うといてあるじゃないか!」。女主が見せたのは、にの名で配られた宣伝だった。美佐は胸を突かれたようにじた。父が注文を断った、あの文面だった。
坂が丁寧に応対した。「できる限りお支払いしておりますが、本の現の準備には限りがございます」。女主は「だったら、これは何なの」とを叩いた。美佐には、印刷された文字と窓の現実とのに、誰もとうとしないことが見えた。
昼休みに美佐が張所の廊へると、文子がを追ってきた。「昨、あのを持ったお客さまがも来ました。
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私は説できませんでした」。文子は先から帳簿を助けてくれていた同僚で、歳。母と妹を養うために勤めを辞めるわけにはいかない。「支が責任を取ると言っても、窓で謝るのはいつも私たちね」。文子の声にみはなかった。ただ疲れがあった。
同じ頃、父の印刷所にも客が来ていた。町内の豆腐・井である。で現を引きそうとして待たされ、「この貼りを作ったのは徳田さんだって聞いた」と言う。源吉は否定した。「頼まれたが、うちは刷っていない」。井は疑うような顔をした。「印刷同士、かばってるんじゃないか」。源吉は控えの正を見せ、へ求めた面が来なかったことを説した。それでも井は納得しなかった。「どこので刷ったかはどうでもいい。がるんだよ」。
印刷所のでは、町の百が配られたを読みげていた。『配ないといてあったから、先週はを閉めてまで並ばなかった。今になって現をせないとは、どういうことだ』。彼は源吉を責めるために来たのではない。文字を信じて予定を変えたのに、誰もその決断のさを引き受けてくれないことが腹たしかったのだ。源吉は『うちが刷ったものではありません』と言ったあと、すぐ黙った。百が聞きたいのは、印刷所の名ではなく、が何を約束できるかということだった。
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百がってから、源吉はに『注文主が誰か分かっていれば、それで分だとっとった。だが文字の先には、を読むがいる』と言った。は父がどこまで自分の責任と考えるつもりなのか、配そうに見つめていた。
その午、美佐のところへが来た。父が問に止められ、急ぎの薬袋の注文を引き受けられなくなりそうだという。川は「仕事を蹴ったなら、信用できない」と掛け売りを渋っていた。はったが、美佐には川も余裕がないことが分かった。を売る側も、に預を置いているのだ。
「姉さん、に頼めないの?」
「は私ののための庫じゃない」
は唇を噛み、「それは分かってる。でも、父ちゃんは筋を通したのに、どうして損をするんだ」と言った。美佐は答えられなかった。筋を通せば報われるなら、父は今ごろ職のを払っているはずだった。
翌、森崎から美佐へ仕事が言い渡された。の払戻しで起きた「特別取扱い」について、経緯を詳しくくようにという。には《徳田源吉氏の請求は、本の任の申により留保》という文章がすでに打たれていた。
美佐は目を疑った。
「父は、自分から待つとは言っていません」
「言葉のき違いがあったんだろう」
「私が判断を誤り、確認を遅らせたんです」
森崎はい声で言った。「その通りけば、お客様にを与える。今はつのの信用が懸かっている」。美佐は文面の空部分を見つめた。そこへ自分の名をけば、父が自発におを受け取らなかったことになる。印刷所で職たちへ払えなかったも、父自の選択になってしまう。
「これは署名できません」
「君は、父親を守るためにを責めるのか」
「私自の失敗を、父のだったことにはしたくないんです」
森崎は類を引きしへ入れ、「今はもう帰ってよろしい」と言った。美佐が机を片づける、ほかの員は誰も顔をげなかった。
帰り、に払い戻しを待った護婦の姿を見かけた。彼女は母親の入院費のために、着物を質に入れたと言った。「のを責めても仕方ないんでしょうけど、あの、いつ払えるかだけでもりたかった」。美佐は謝った。謝るしかなかったが、相が聞きたいのは謝罪ではないと分かっていた。
印刷所へ着くと、父が活字の箱を分けていた。のために古い械を備し、いつでも売れるようにしているのだという。「そこまで悪いの」と聞くと、父は「部の注文先から現が入らん」と答えた。それでも本の仕事は残っている。印刷所を畳むほどではない、と父は笑おうとした。
その、弟が枚のを持って入ってきた。
張所の戸に貼られていた告示の写しだった。《当面の払戻し事務について、本の指示を待つ》。同じ掲示板には、あの「いつでも全額払う」と印刷されたが、まだ残っていたという。
美佐が翌朝勤すると、森崎の机は空だった。本へ向いたという。代わりに坂が支の類を理していた。美佐の報告には、彼女が断った文言がそのまま残っている。
そして、類の束の番から、もう枚のがてきた。の宣伝を千枚刷った印刷会社からの請求。納品先には信用と記してあるのに、側の正式な発注欄は空欄だった。
美佐は坂へ尋ねた。「このを作れと言ったのは誰なんですか」
坂は答えず、別の類をねた。そこにあったのは、美佐が昨署名を拒んだ報告の写しだった。
その末尾には、彼女の名がすでに印字されていた。
《担当員 徳田美佐 確認済》
美佐が度も押していないはずの確認欄に、赤い「済」の印まで押されていた。
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