"六時の椅子" 第1話
の子
昭、午。
野寺ハルは、台所の柱計がつ打つしに玄関をた。に畳んだ子、には油をかぶせた平たい箱を持っている。歳のにはまだ暗い畳がたかった。昨夜のが、側溝の蓋に細い氷を残していた。
商の魚はを流しておらず、豆腐からだけ湯気がている。突き当たりにある森田写真館は、から鉄のシャッターをろしたままだった。階の窓には、ひびの入ったガラスが枚残っている。
ハルはそのに子をいた。背を伸ばすと膝の裏に痛みがったが、今は座り直さなかった。をシャッターに貼る。でめくれぬよう、隅を布のテープで留めた。
《昔の族写真をお探しの方は、お声がけください。朝からまで》
字はきくいた。目の悪いにも見えるように、墨を度引いた。
「また来たのか、おばあちゃん」
自転のベルが鳴った。聞配達の夫だった。歳。片方の袋の親指に穴がある。
「今で何目だい」
「目ですよ」
「はもうかないよ」
「けてもらうつもりはありません」
ハルは膝に箱を置いた。
「昔の写真を取りに来るがいたら、ここだと分かるでしょう」
夫はを眺めた。先週、写真館の取り壊しがに決まったと町会の掲示板にてから、ハルは毎朝ここに来るようになった。
広告
最初のは、通りがかりのが「戦争の写真ならうちもなくした」と言いながらを止めた。だが、預かっている写真を見せる段になると、族の名も所もわなかった。
「朝だけなのはどうして」
「仕事にるが通るでしょう。夜だと、ご寄りはてこられないしね」
答えはもっともだった。ただ、夫には別の気がかりがあった。ハルの箱にはの台に貼られた写真が何枚も入っていたが、布で包んだ枚だけは、がづくたびに箱のへ隠してしまうのである。
先は、若い男が古い制姿の写真を見に来た。父親が戦、町の乗自で働いていたという。ハルは確かめたいことを幾つか尋ねた。会社の名、当のまい、写真を撮った。つまではったが、台にかれた姓が違っていた。男は落胆しながらも、「探している写真があると分かっただけで、また聞きに来られます」と言った。ハルは名と連絡先を帳面にいて、へ戻ってから達吉の古い所録をめくった。
そういうさなやり取りは、毎続いた。箱が軽くならないことより、相がを使ってここまで来たのに何も渡せないことがつらかった。写真を持ち主へ返せるは、っていたほど簡単には来なかった。
その朝も、ハルは包みの端がはみたのに気づいて、素く押し込んだ。
広告
「それだけ、まだ誰にも見せてないでしょう」
「にお返しする写真じゃないからね」
「おばあちゃんのの?」
ハルは返事をしなかった。夫も、それ以聞かなかった。配達先の医院へ聞を届けなければならない。
分、準備の百が声をかけた。
「野寺さん、写真館の甥が、また来てたよ。壊すに残りを全部片づけるんだとさ」
「さんが?」
「ええ。今の末には業者が入るって」
ハルは箱の蓋を押さえた。いっぱい。あと。き夫が伝っていた写真の持ち主探しを、先延ばしにはできなかった。
になると、ハルは貼りをした。子を畳む作が遅くなったのは、腰ではなく気持ちのせいだと自分でも分かっていた。今も、名を確かめられなかった。
その、通りの向こうで駄が止まった。
「すみません、その箱……」
代半の女がっていた。肩の擦り切れた茶い套を着て、買い物籠には糸巻きが入っている。
「族写真があると聞いたんですが」
「お名と、昔んでいた所を教えてくださいな」
「渡辺です。川にんでいました。空襲で、が焼けました」
ハルは箱のから、川の所がかれた封筒を選んだ。女は枚ずつ、息を詰めるように見た。ある写真に指が止まり、それから首を振った。
「違います。うちの子じゃありません」
「そうですか」
ハルが写真を戻そうとすると、にあった布包みの角が見えた。女の目がそこへ向いた。
「そちらも、見せていただけませんか」
「これは、の……」
言い終わるよりく、布がしずれた。若い娘の顔が半分だけ現れた。い襟、固く結んだ髪。の裏庭で撮ったような、飾り気のない枚。
女の籠が面に落ちた。糸巻きが畳をころころと転がった。
「この……」
ハルは写真を押さえた。
「ごじなんですか」
「昭の、焼け跡の救護所で見ました。私、このに娘のことを聞いたんです」
ハルの指が写真の端をつまんだまま止まった。
「この子は、澄子といいます。私の娘です」
女は唇を噛んだ。
「娘さんなら、教えてください。あのがつの私の娘を、どこへ連れていったのか」
豆腐の荷が背を通り過ぎた。ハルは、その音がくから聞こえるような気がした。
広告
おすすめ作品
-
完結第13話
返せなかった六百二十円
昭和二年、金融恐慌に揺れる東京・神田。銀行員の徳田美佐は、取り付け騒ぎのさなか、印刷所を営む父が請求した預金六百二十円だけを、自分の判断で留めてしまう。 給金を払えなくなった父の工場では職人が去り、父娘の間にも深い溝が生まれる。さらに銀行は「いつでも全額払える」と記した宣伝紙を配り、美佐が認めていない報告書には「確認済」の印が押されていた。 自分の過ちと、銀行が隠そうとする事実。美佐は職を失う覚悟で真相に向き合うことになる。時代|歴史|昭和|親子関係2.8万字5 96 -
完結第13話
疎開から戻った娘が、再び村へ帰りたがった理由
昭和二十年の秋。戦争で夫と家を失った文江は、集団疎開から戻った十二歳の娘・幸子と、焼け跡の東京でようやく再会した。 ところが三日後、娘は突然「あの村へ帰りたい」と言い出す。母との暮らしを喜んでくれると思っていた文江は、深く傷ついた。 やがて娘の行李から見つかった一通の手紙。そこには、長野の農家で暮らす九歳の少女・千代との、切実な約束が隠されていた。 自分たちの生活さえ苦しい母娘は、その約束にどう向き合うのか。戦後の厳しい暮らしの中で、家族の絆と本当の居場所を見つめ直す、心温まる物語。時代|歴史|昭和|ミステリー|親子関係2.8万字5 156 -
完結第13話
杉原千畝の査証を得た一家、母だけが出国できない
一九四〇年、リトアニア。故郷ポーランドを追われた十六歳のミラは、両親と弟とともに、杉原千畝が発給した日本の通過査証を手にする。しかし、それは長い逃避行の始まりにすぎなかった。 足りない旅費、次々と求められる書類、そして母の名前に生じた一文字の食い違い。ようやく出国の道が見えた時、許可されたのは家族四人のうち三人だけだった。 母を残して出発するのか、それとも全員で待つのか。見知らぬ人々の小さな善意に支えられながら、一家は生き延びるための道を探していく。 杉原千畝の「命のビザ」の史実を背景に描く、家族と希望の物語。時代|歴史|昭和2.7万字5 233 -
完結第20話
磨かなかった靴
昭和23年、上野駅前。靴磨きで生計を立てる十三歳の健太は、町の有力者・篠田が差し出した革靴を見た瞬間、磨くことを拒んだ。その踵には、三年前に生き別れた兄と一緒に縫った、忘れられない傷跡があった。 篠田の怒りを買い、仕事場を失った健太は、仲間たちと暮らしを立て直しながら兄の行方を追い始める。ところが調べるうちに、少年たちの年齢を偽った労働書類と、行方不明の兄の不可解な署名が浮かび上がる。 焼け跡の町で、一足の靴を手掛かりに隠された真実へ近づく少年の、勇気と再生の物語。時代|歴史|昭和|兄弟姉妹2.8万字5 311