みかん小説
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"六時の椅子" 第9話

澄子の名

職の元にある冊目の帳面は、先ほどのものよりさかった。縁が黒ずみ、度に濡れたのか、が固くくっついている箇所がある。

「当、医師も薬も分ではなかったそうです。記録を残したのは、寺にいた伝いの方々でした」

ハルはうなずいた。職がっているのは、古い帳面にかれたことと、寺に伝わった事実だけだ。彼に、自分の娘を見たかのように話させてはいけない。

者の記録には付、氏名、齢、確認したの名が並んでいた。まだ元とかれたもいた。職は分ずつ、破れそうな頁をで支えながらめくった。

。まず男性、齢詳の女性。そのに、さく墨で囲まれたがあった。

《野寺澄子 歳 本所方面 同午》

ハルはすぐには読めなかった。見つけた名をにすれば、そのがもう度と帰らないことまで確定してしまうような気がした。

「ここに、名があります」

職は静かに頷いた。

「病状の経過は、の帳面に続いているはずです。照してよろしいですか」

「お願いします」

冊を並べると、最初の帳面には澄子がに救護所へ来て伝ったこと、の夜に傷とで倒れたことが記されていた。脚の傷に分な当てができず、衰がんだらしい。

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細部は判別できなかったが、別冊のと致している。

「この名を記した方は、どなたでしょう」

「こちらに署名があります。松井ゆき。救護所で護の伝いをした女性です。別の記録にも同じ字がてきます」

職は、炊きしの当番帳を持ってきた。そこにも松井ゆきの名があった。帳面ごとに字が似ている。偽りの記録を作ったと疑う根拠はなかった。

「のあと、どこへ」

ハルの問いはさかった。

「この頁には、共同で荼毘に付したとあります。名を刻んだ個別の墓所は残されていません」

職は別の枚を示した。

《 共同供養。数記載》

「遺族へらせるための所控えが残っていますが、連絡のき届かなかった方もかったようです」

「うちは、らせが来ませんでした」

「申し訳ありません。なぜお宅に届かなかったのかは、ここだけでは分かりません」

ハルは謝られる筋いではないとじた。職は当ここにいなかった。あの、誰もが何もかも失いかけていた。

ただ、ひとつだけ確かめたかった。

「娘は、あの子を……つのトシちゃんを、ここへ連れて来なかったのですね」

「子どもの方の記録は、この寺にはありません。あなたがお持ちの引渡し控えと、さんの記によれば、別の方へ託したと考えられます」

ハルは鞄からをした。

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つの記録を並べると、刻とのきがつながった。

の朝、澄子はトシをウメへ引き渡した。同の午、負傷者を運んで慈寺の救護所へ来た。の夜に倒れ、の午くなった。

最のが、の暗から浮かびがった。

ハルの脳裏に、歳の澄子が初めてで台所にったのことが浮かんだ。噌汁の鍋を吹きこぼし、慌てて布巾で拭いた。ハルはるつもりだったが、達吉が「でめば同じだ」と言って、くなった汁をんで笑った。澄子もつられて笑った。

あの子はいつも派だったわけではない。怠けたもあれば、答えもした。救護所でを助けたという記録が残ったからといって、聖のように作り替えてはならない。鍋を焦がした澄子も、母と論した澄子も、同じひとりの娘だった。

ハルは元にを当てた。声をせば、子どものように泣きそうだった。それでも、今は最まで見ておきたかった。

「遺品の記録はありますか」

職はく息を吸った。

「つだけ。『糸切り鋏、袋に入れ保管』とあります。現物は残っていません」

澄子は針仕事が苦だった。細かな縫い目をそろえるより、所の子のを引いてをるほうが好きだった。けれど、母の仕事を伝うは糸切り鋏をいつも持っていた。

なぜそれをあの救護所に持っていったのだろう。

いした。あの晩、をるに、澄子は包帯になる布を切って持っていくと言った。ハルは「うちの布を持っていかないで」と言ってしまった。

鋏は、娘が自分ので選んで持っていったものだったのかもしれない。そう考えても証はできない。だからハルは、その推測を胸に置いたままにした。

「写しをいただくことはできますか」

「個の記録ですから、該当する部分に限ってきで控えを作ります。原本はこちらで保管します」

職は枚のに付と氏名を転記し、寺の印を押した。ハルは表記の字ずつを確かめた。娘の名が、また誰かのでかれた。そのことに奇妙な堵を覚えた。

「どうしてもに、こちらへ来られなかったのでしょうね」

職が尋ねたのではない。ハルが自分でにした。

当は所が分からなかった。達吉も仕事を休めなかった。も移も簡単ではなかった。そうした理由は、たくさんあった。

けれど番きな理由は、ハル自にしか分からない。

「怖かったんです。んだと分かれば、もう待つこともできないから」

職は返事をせず、転記したを差しした。

庭の陽がへ傾いていた。ハルはちがろうとして膝の力が抜け、再び座った。しばらくして自分で茶をみ、鞄へを入れる。

泣くことはできなかった。涙はから来るかもしれない。

帰りの列の窓に、老いた女の顔が映った。のからしずつ変わり、今では娘よりもになった顔だ。

ハルは窓に映る自分へ、ので言った。

澄子は、帰ってこなかったんじゃない。帰れなかったんだ。

何度言い直しても、失った数は戻らない。それでも、つの言葉のには、彼女が渡れなかったい溝があった。

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