"昭和32年、町中が機を止めた日に織り続けた73歳の女" 第1話
止まらなかった音
昭、の初め。越の川沿いにある織物町で、朝になってもの音がしなかった。
いつもならを歩くだけで、と鉄のぶつかる音が々の壁を震わせる。古い踏みの乾いた音、モーターのいうなり、糸巻きのきしみ。朝飯の支度との準備を緒にする女たちの声まで、今は聞こえない。
ただ軒、裏通りの坂のから音がした。
ガタン、ガタン、ガタン。
坂井ヨシ、歳。く糸を扱ってきたが、今も杼を送っていた。玄関のガラスには朝が曇り、織の脇には昨夜から使っている湯たんぽが置いてある。寒くなると指先が曲がりにくいので、休むたびにを温めるのだった。
の夕方、町の貸座敷に数の織子が集まった。誰も初めから仕事を止めたいとっていたわけではない。園子は子の着物の袖を縫いながら聞き、ミネは父親に借りた懐計を見ていた。沢のから届けられた通はく、来からの単価を改める、とだけある。反対するならどうすればよいか。誰が決めた条件なのか。づてに声を掛けううち、女たちは初めてつの所で自分たちの仕事の値を並べた。フキが「止めれば、なくとも聞くは持つかもしれない」と言うと、誰かが「も仕事がないのは困る」
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と返した。休んだ数の補償などない。それでも最には、まず皆で止めて相談を求めるという話になった。ヨシもそこにいた。黙っていたのを、誰かが賛成と受け取ったのかもしれない。翌朝、自分のをかした、そのの曖昧な沈黙がこんなにいものだったと気づいた。
を叩いたのは田辺フキだった。歳。川向こうのから仕事を受ける女たちのまとめ役で、織った布のさを測るには誰よりもうるさい。
「ヨシさん。話、聞いていないわけじゃないでしょう」
「聞いたよ」
「それなら、どうしてかしているの」
ヨシは杼を置かなかった。縦糸が緩むに本送らねば、端の目が乱れる。
「昼までに仕げる分がある」
「みんな、今から止めるって決めたのよ。賃を反百円から百円にげるなんて、受けられない。昨の寄りいにも来たじゃない」
「私は、止めると返事してない」
フキのろには、杉本園子と倉田ミネがっていた。園子は幼い娘を背負い、ミネの着には糸くずがついている。仕事をしないにも女たちはについた癖で、織の横に着るを選ぶ。
「私たちが止めてるにヨシさんだけ納めたら、織元は困らなくなるわ」園子が言った。「あなたの分がほかのの分の代わりになる」
ヨシはそこで初めて杼を止めた。
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「反や反で町じゅうの仕事が済むなら、苦労はないよ」
「数の話じゃありません」フキの声が固くなった。「ずつ、困っているからという顔をして戻ったら、値げがそのまま決まるの」
ヨシの背の襖が、しいた。歳の孫の信夫が寝巻きのまま顔をす。昨夜の咳で目のが赤かった。
「ばあちゃん、お湯」
ヨシはちがり、湯みを持っていった。はそれを見て黙った。信夫がぜんそくの発作を起こすと、町の診療所だけではにわないことを皆っている。町の病院へく賃も薬代も、計にはかった。
「病気のことは分かるわ」とフキが言った。「だからこそみんなで――」
「みんなで止めている、うちの薬さんは待ってくれるのかい」
返事はなかった。
ヨシは湯みを孫へ渡し、またのへ座った。フキが戸を閉める、枠がし乱暴に鳴った。
昼、織元の沢俊平が布を引き取りに来た。いつもなら息子を寄越す男が、今は自分で軽トラックを運転してきた。
「助かりました。坂井さんがいてくれるなら、まだ注文を失わずに済む」
「反です。昨夜からかかっていた分も入ってる」
沢は巻いた布をで押した。
「糸はじきがない。昔のでこれだけきれいに織れるんだから」
「褒めなくていい。をください」
沢は封筒を差しした。
ヨシはそのでを確かめた。貨と幣を数え、もう度数えた。
「百円のはずだよ」
「しい単価だから、百円です」
ヨシは封筒を机に置いた。
「それは今からの分でしょう。この反は昨から織っている」
「材料を渡したの取決めに、納品の単価を用いるといてあります」
「そんなこと、聞いてない」
「皆さんにも同じ条件です」
沢の声にはりがなかった。っている暇もないような疲れた顔だった。ヨシはその顔を見て、初めて自分が守ったつもりの仕事が、もう昨と同じ仕事ではなくなっていたとった。
帰り際、沢はの扉に片をかけたまま、「の分も頼みます」と言った。ヨシは返事をしなかった。頼まれることにはい慣れていた。夫がんだも、息子がさかったも、仕事を頼まれればした。まだ自分のはここできていけるとえたからだ。だがその朝の「頼みます」は、よその女が断った分を背負うというも持っていた。ヨシは織の元に落ちた糸くずを拾い、掌で丸めて捨てた。細い糸はの力で簡単に切れる。それでも布になれば、のだけではなかなか破れない。そんなことをった自分が、し嫌だった。
の向こうで、々のは相変わらず静まり返っていた。
ヨシのからだけ、また音が聞こえ始めた。
今度は、本にもひどくきく響いた。
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