"昭和46年、三日で逃げ帰った兄と消された就職記録" 第1話
で逃げ帰った兄
「おは族を捨てるつもりなのか!」
母が兄を平で打ったのは、昭の朝だった。
兄の正男は歳。、の仲と緒に京へ集団就職したばかりだった。品の背広ではなく、母が所から借りて直した学を着て発した。駅のホームで母は何度も言った。「最初の料がたら、しでいいから送っておくれ」。兄は笑って「分かってる」と答えた。歳の私は、その笑顔を最に見ることになるとはわなかった。
発の夜、兄は台所のかりので、千の破れた靴を縫い直していた。「京は広いの」と千が聞くと、「駅ので迷子になるくらいだってさ」と笑った。兄が持っていく荷物はなかった。着組、歯ブラシ、母の握り飯、私が鉛で描いた族の絵。しい鞄を買うがなく、父が使っていた革鞄を入れして持っていった。私は絵の裏に『おにいちゃん、また帰ってね』といた。兄はそれを読んで、「帰るに決まってるだろ。いつか料でを京へ連れていく」と言った。だからに本当に帰ってきたとき、私は嬉しくて玄関へ駆け寄ったのだ。鳴り声が始まるまでは。
発の、丹羽源はホームで保護者を集め、「都会の会社は厳しいが、耐えればになれる」
広告
と演説した。母は何度もをげていた。兄はその姿を見て、学の襟を直した。あのとき彼が何を背負って汽へ乗ったのか、当の私はらなかった。
帰ってきた兄は、膝のあたりがで汚れ、革鞄の留めをつ失くしていた。額には浅い傷があり、目のは青黒かった。母はその姿を見ても怪の理由を尋ねなかった。先にの就職世話役、丹羽源から話を受けていたからだ。「正男君が勤め先を無断で抜けした。会社が変な迷惑を被っている」と。
「も続かないとはね。京で遊びたかっただけじゃないのかい」
「違う。あそこは、聞いてた仕事と違う」
兄はそれだけ言い、私の方を見た。の妹の千は歳で、柱のから覗いていた。父がに仕事の事故でくなってから、兄は自分の靴を買うことさえ慮していた。朝は聞配達、夕方は農の薪割りを伝っていた。そんな兄が、仕事を嫌がって逃げるとはえなかった。
「何が違うんだい。陽精器という派なだろう」
「そこに入ってない奴がいるんだ」
「のことより自分のことを考えなさい」
「母ちゃん、次の組をかせちゃ駄目だ。来週、またるだろ」
母の表が変わった。今度はりではなく、恐れに似たものだった。「そんな話をでするんじゃないよ」。兄は鞄をけ、折り目のついたいをした。
広告
そこには京の名と、見らぬ会社の名がつかれていた。
「これ、丹羽さんの言ったことと違う。俺、ちゃんと確かめたんだ」
母はを奪った。台所の竈には朝のが残っていた。母は類をくしゃくしゃにし、燃えかけの薪のへ投げ込んだ。
「あっ」
私が声をげたときには、の角が赤く縮れていた。兄はのへを伸ばしかけたが、母に肩を押さえられた。「いい加減にしなさい。これ以恥をかかせないで」。兄は母を見た。あれほど鳴られても泣かなかったのに、そのときだけ唇が震えた。
「……分かった。じゃあ、俺はもうここにいない」
兄は鞄を閉じてへた。千が追いかけようとしたが、母が止めた。のの坂をりていく背は、に汽へ乗ったときよりずっとさかった。私は裸で玄関へびした。「兄ちゃん、どこへくの」。兄は振り向かなかった。ただ、曲がり角に差しかかる直、度だけち止まった。
「美枝、学はやめるなよ」
それが、私に向けられた最の言葉になった。
兄はの端の材で働き始め、盆にも正にもへ戻らなかった。母は「正男のことはもう話すな」と言った。では「集団就職からで逃げた男」としてられ、私は学でもその話を聞かされた。「お兄さん、京が怖かったんだって?」。私は笑ってごまかすことを覚えた。
たった平成、私は歳になっていた。町の図で働く傍ら、ノ瀬駅の業周を記する展示の準備を任された。古い切符、発刻表、見送りの写真。駅員の族や旧学から寄せられた資料を理する、ささやかな仕事だった。
その箱に『昭 就職列』と墨でかれた封筒があった。私は懐かしくなっていた。ホームに並ぶのたち。真んには、歳の兄がいた。写真の裏にはずつき先の名が記されている。
私はそこでを止めた。兄と緒に京へ向かった平田隆、修、田信のの欄だけ、同じ名が線で消され、別の名にき換えられていたのだ。
『陽精器株式会社』のに、さな字で『川鉄』。
消した線のから、しい判が押してあった。
『丹羽就職援会』。
母が燃やしたにも、同じ判があった。そういした途端、の竈の炎が目のに蘇った。
広告
おすすめ作品
-
完結第16話
75万円を借りに来た私に、銀行が告げた65億円の秘密
十四年間、洋服直しの仕事を続けてきた石田牧は、自分の店を開くため、不足する75万円を借りに銀行を訪れた。ところが支店長から告げられたのは、自分に約65億円の信託財産があるという信じがたい事実だった。亡き母は大手物流会社の創業家の娘だったという。なぜ母は貧しい暮らしを選び、巨額の財産を隠し続けたのか。戸惑う牧の前に、初対面の叔父が現れ、21億円で株式を買い取ると申し出る。突然手にした財産の裏には、家族が長年隠してきた秘密と思惑があった。真実|第二の人生|親子関係|金銭問題2.3万字5 23 -
完結第12話
朝霧湯、最後の暖簾
昭和48年の暮れ。信州の小さな銭湯「朝霧湯」は、石油危機による灯油不足で休業の危機に追い込まれていた。主人の島田正一は、わずかに残った燃料と娘の進学費用を前に、店を閉める決断を迫られる。だが、風呂のない長屋に暮らす老人たちにとって、朝霧湯は欠かせない場所だった。妻の澄子や娘の千絵、商売敵だった銭湯の主人までが動き出すなか、正一は最後の一度だけ湯を沸かすことを考え始める。家族の暮らしを守るか、長年通い続けた客を迎えるか。昭和の町に生きた人々の葛藤と温もりを描く物語。時代|歴史|昭和|第二の人生|介護2.5万字5 0 -
完結第10話
手取り23万円の俺、旅館で妻が「お嬢様」と呼ばれた
手取り月23万円のトラック運転手・中村和也は、妻の彩佳と娘の結衣を何よりも大切にしていた。幼い頃、亡き父と交わした温泉旅行の約束を果たすため、毎月五千円を五年間積み立て、ようやく三十万円を貯める。結婚記念日に彩佳が選んだのは、山奥に佇む名門旅館「月影楼」。質素な暮らしの自分たちには場違いに思えたが、玄関に到着した途端、従業員が彩佳に深々と頭を下げた。「お嬢様、お帰りなさいませ」。妻が長年隠してきた過去とは何なのか。家族への愛と、思いがけない運命の再会を描く物語。人生逆転|夫婦|第二の人生|親子関係2.4万字5 107 -
完結第13話
昭和32年、町中が機を止めた日に織り続けた73歳の女
昭和32年、越前の織物町。工賃の値下げに抗議して女たちが一斉に機を止めるなか、73歳の坂井ヨシだけが織り続けていた。ぜんそくを患う孫の薬代を稼ぐためだった。しかし、納めた布の工賃は一方的に減らされ、仲間からは「裏切り者」と見なされてしまう。さらに急ぎの注文を引き受けたヨシは、傷ついた指と返せない手付金に追い詰められていく。家族を守るために働くことが、なぜ仲間を苦しめるのか。時代|歴史|昭和|第二の人生|絶縁2.8万字5 41 -
完結第12話
昭和39年、給食費泥棒にされた少女
昭和39年、村の小学校で給食費9,600円がなくなったと騒ぎになり、11歳の岸田和子は担任から泥棒だと決めつけられた。無実を訴えても信じてもらえず、和子は転校を余儀なくされる。それから35年。廃校となった母校で古い出納簿を見つけた和子は、問題の給食費が事件の二日前に全額入金されていたことを知る。なぜ教師は、なくなっていないお金を盗んだと少女を責めたのか。食数の合わない給食記録、突然退職した調理員、沈黙する元同級生。忘れられた帳簿を手がかりに、和子は35年間隠されてきた学校の秘密を追い始める。時代|歴史|昭和|真相3.1万字5 355