"昭和46年、三日で逃げ帰った兄と消された就職記録" 第3話
燃やされた契約の半分
「どうして、そのことをも黙っていたの」
私が尋ねると、母はをんだ。「丹羽さんは、うちがどれだけ苦しいかっていた。お父さんがくなったあと、米を買うがないまで、あのに相談していたからね」。
丹羽源はの『就職援会』を取り仕切り、子どもたちを町のへ紹介していた。正装して学へ現れ、保護者会では都会の仕事について詳しく話す。母のように頼る親はかった。兄の就職先を決めたときも「入寮できる。事もる。料の部をに送れる」と約束してくれた。
「兄ちゃんが戻るに、丹羽さんは何と言ったの」
「正男が約束を破れば、紹介した会社が損をすると。次にく子たちの就職まで駄目になると言われた。うちは母子庭だろう。おたちが学で肩の狭いいをするとも」
「だから、を燃やした?」
母は顔を覆った。「あのころの私は、正男が働いてくれることだけを考えていた。さえなければ、あの子は京に戻るとったんだよ」
私はりを覚えたが、すぐには責めなかった。母は違った。けれど、理由を聞かずにただ責めれば、私も同じことをする。そうった。
母は棚から古い裁縫箱をした。「全部は燃えなかった」。に、のひらほどの茶い片があった。端が黒く焦げ、央に角い朱印が半分だけ残っている。
広告
『丹羽就職援会』。そのに、鉛で『第配属先』とかれていた。
「いつから持っていたの?」
「竈を片づけたとき、に混じっていた。捨てられなくて……」
私は片を封筒へ入れ、母の許しを得て持ち帰った。に残ったさな数字は『千百』。額なのか、番号なのか分からない。しかし契約の部が残っただけで、の沈黙に穴がいた気がした。
翌週、私は同じ列に乗った修を訪ねた。柴田さんから届いた古い所は京の町だったが、さんはすでに転居していた。郵便局の転送も切れている。古い話帳をたどり、ようやく埼玉ので働く弟さんに連絡がついた。「兄はに仕事を替えました。あの頃の話なら、きっと嫌がります」と言われたが、連絡先を渡してもらえた。
さんは歳になり、族とさな印刷所を営んでいた。私がノ瀬の名をすと、「まだあのに駅があるのか」と笑った。けれど、契約の焦げ跡を見せると、笑顔が消えた。
「この数字を覚えていますか」
「千百……。寮の預りだ」
「預り?」
「初に丹羽の息子が、寝具代と紹介の費用だと言って取った。聞いていないと抗議したら、契約にあると言われたんだ」
さんは机にを置いた。「陽精器の仕事がなくなったから、しばらく別ので働いてもらう。
広告
そう言われた。実際は最初から、そっちへ連れてくつもりだったんだろうな」。
彼らが乗せられたのは、京のではなく、埼玉県境にい属加所だった。川鉄。窓のない寄宿舎で、朝から夜まで鉄板を運ばされた。賃について尋ねると「研修だから、計算はあとで」と言われた。昼の弁当はえたご飯と漬物だけだった。さんはそこで、自分たちが正式な社員として扱われていないことをった。
「最初の晩、俺たちは同じ布団ので、から持ってきたおにぎりをべたんです」とさんは言った。「隆は母親の梅干しがしょっぱいと笑って、正男は妹の描いた絵を見せてきた。みんながってたんだといます。帰りたいなんて言えば、仲から笑われる気がしたから」。彼は机の隅に置いた写真てを指した。今では成した息子たちが写っている。「自分の息子がで、あんな所へ連れていかれたらとうと、今でも腹がつ。俺が親に話せなかったのは、仕事を失うのが怖かったからだけじゃない。自分で見抜けなかったことを恥じていたんです」。
私は、その恥ずかしさがよく分かった。私もい、兄が逃げたとにするのが嫌で、詳しいことを尋ねなかった。黙ってしまうには、それぞれ違う理由がある。そして、その沈黙を利用するもいる。
「正男はどうして帰ったんですか」
さんはい黙った。「俺たちを置いて逃げたんじゃない。あいつは……」
そこへ印刷の音がきく響いた。さんはちがり、扉を閉めにった。戻ってきたとき、声が沈んでいた。
「緒にいた平田隆が、目に怪をしたんだ」
平田は鉄板を運ぶ台にを挟まれた。正男が病院へ連れてくよう求めても、責任者は「したことはない」と湿布だけ渡したという。夜、平田はをした。正男は話を借りようとしたが、寄宿舎の話は使わせてもらえなかった。
「目の未、正男はへた。俺たちは助けを呼びにったとっていた」
「兄は何か言い残しましたか」
「『次に来る奴らだけは乗せない』と。それから、『平田のことは俺が何とかする』って」
私は背がたくなった。兄はへ戻るために逃げたのではない。次のたちを止めに戻ったのだ。
「平田さんは、そのあとどうなったんですか」
さんは目を伏せた。「俺がそこをたころには、もういなかった。実に返されたと聞いた。でも、実へ連絡したら、帰っていないと言われた」。
「失踪したんですか」
「詳しいことは分からない。それで俺も怖くなった。誰にも話さなくなったんだ」
私はノートを閉じた。さんの記憶だけで、すべてを断定することはできない。
それでも、兄が隠したの来事は、単なる就職先の違いではなかった。
帰り際、さんが古い葉を枚差しした。「これ、正男があとで寄越したんだ。捨てられなかった」。差欄は空で、い文章だけがあった。
『隆のことは調べている。とも、自分を責めるな。にはまだ言うな』
消印は昭。兄が母にを追いされてから、たった週だった。
広告
おすすめ作品
-
完結第16話
75万円を借りに来た私に、銀行が告げた65億円の秘密
十四年間、洋服直しの仕事を続けてきた石田牧は、自分の店を開くため、不足する75万円を借りに銀行を訪れた。ところが支店長から告げられたのは、自分に約65億円の信託財産があるという信じがたい事実だった。亡き母は大手物流会社の創業家の娘だったという。なぜ母は貧しい暮らしを選び、巨額の財産を隠し続けたのか。戸惑う牧の前に、初対面の叔父が現れ、21億円で株式を買い取ると申し出る。突然手にした財産の裏には、家族が長年隠してきた秘密と思惑があった。真実|第二の人生|親子関係|金銭問題2.3万字5 23 -
完結第12話
朝霧湯、最後の暖簾
昭和48年の暮れ。信州の小さな銭湯「朝霧湯」は、石油危機による灯油不足で休業の危機に追い込まれていた。主人の島田正一は、わずかに残った燃料と娘の進学費用を前に、店を閉める決断を迫られる。だが、風呂のない長屋に暮らす老人たちにとって、朝霧湯は欠かせない場所だった。妻の澄子や娘の千絵、商売敵だった銭湯の主人までが動き出すなか、正一は最後の一度だけ湯を沸かすことを考え始める。家族の暮らしを守るか、長年通い続けた客を迎えるか。昭和の町に生きた人々の葛藤と温もりを描く物語。時代|歴史|昭和|第二の人生|介護2.5万字5 0 -
完結第10話
手取り23万円の俺、旅館で妻が「お嬢様」と呼ばれた
手取り月23万円のトラック運転手・中村和也は、妻の彩佳と娘の結衣を何よりも大切にしていた。幼い頃、亡き父と交わした温泉旅行の約束を果たすため、毎月五千円を五年間積み立て、ようやく三十万円を貯める。結婚記念日に彩佳が選んだのは、山奥に佇む名門旅館「月影楼」。質素な暮らしの自分たちには場違いに思えたが、玄関に到着した途端、従業員が彩佳に深々と頭を下げた。「お嬢様、お帰りなさいませ」。妻が長年隠してきた過去とは何なのか。家族への愛と、思いがけない運命の再会を描く物語。人生逆転|夫婦|第二の人生|親子関係2.4万字5 107 -
完結第13話
昭和32年、町中が機を止めた日に織り続けた73歳の女
昭和32年、越前の織物町。工賃の値下げに抗議して女たちが一斉に機を止めるなか、73歳の坂井ヨシだけが織り続けていた。ぜんそくを患う孫の薬代を稼ぐためだった。しかし、納めた布の工賃は一方的に減らされ、仲間からは「裏切り者」と見なされてしまう。さらに急ぎの注文を引き受けたヨシは、傷ついた指と返せない手付金に追い詰められていく。家族を守るために働くことが、なぜ仲間を苦しめるのか。時代|歴史|昭和|第二の人生|絶縁2.8万字5 41 -
完結第12話
昭和39年、給食費泥棒にされた少女
昭和39年、村の小学校で給食費9,600円がなくなったと騒ぎになり、11歳の岸田和子は担任から泥棒だと決めつけられた。無実を訴えても信じてもらえず、和子は転校を余儀なくされる。それから35年。廃校となった母校で古い出納簿を見つけた和子は、問題の給食費が事件の二日前に全額入金されていたことを知る。なぜ教師は、なくなっていないお金を盗んだと少女を責めたのか。食数の合わない給食記録、突然退職した調理員、沈黙する元同級生。忘れられた帳簿を手がかりに、和子は35年間隠されてきた学校の秘密を追い始める。時代|歴史|昭和|真相3.1万字5 355