"昭和46年、三日で逃げ帰った兄と消された就職記録" 第9話
兄の名をいた
私はもう度、先を訪ねた。奥さんは最初、面会を断ろうとしたが、用件を聞くと私を居へ通してくれた。さんは邪をこじらせて寝込んでいた。私は無理に話をしないと約束し、机のに枚の類を置いた。
枚は兄が学を卒業するときいた希望票。学へ残された本の署名だ。もう枚は、昭末に作成された『本希望による勤務先変更届』の複写。そこにも『岸田正男』といてある。しかしつの文字は、誰が見ても違っていた。
「先。この届をしたと、兄から聞きましたか」
さんは無言でを見比べた。
「兄は違うと言っています。岩瀬さんの相談記録にも、同じことがかれていました」
さんの呼吸がし荒くなった。「どうして、そこまで」。
「で逃げたと兄に言い続けたのは、私たちです。でもその話の元になった類を作ったが、まだ何も話していないからです」
先は目を閉じた。私は待った。計が分ほどんだころ、先はようやく言った。「署名は、俺がいた」。
私のには、最初そのが入ってこなかった。「先が?」
「丹羽さんに頼まれた。正男君が戻って騒ぎになると、ほかの子の就職先も駄目になると言われた。学は本の希望で配置を変えたと報告しろと」
広告
「でも、兄はその届けを見てもいなかったんでしょう」
「……そうだ」
さんは涙を浮かべた。「正男君が学へ来たに、俺は職員で会っている。あの子は『京へ入った子が危ない。次のは直接会社へ話してほしい』と言った。俺は『分かった』と答えたんだ」。
「それなのに、嘘の類を?」
「丹羽さんが、これからの徒の面倒は見られないと言った。の就職実績が崩れれば、から責められる。俺は……怖かった」
私は机の端を握った。が保を選ぶたびに、歳の兄へ責任が押しつけられていた。
先は、学の学芸会で私に賞状を渡してくれたでもあった。兄の卒業式では、保護者ので「都会へっても故郷の誇りを忘れないでください」と語っていた。私たちは、その言葉を本気で信じていた。だからこそ、目ので文字を偽ったと認める先を見るのがつらかった。「先は、兄に何か言ったんですか」と聞くと、彼は首を振った。「言えなかった。あの子が材で働いているとっても、会いにけなかった」。私はそれを聞き、先にもい沈黙があったのだとった。けれど、その沈黙を背負ってきたさは、兄と同じではない。
先の机には、孫の写真が置かれていた。私は目を向け、あえて尋ねた。「もし、この子が同じことをされたら、先はどうなさいますか」
広告
。先は写真を伏せ、唇を噛んだ。しばらくして「許せないとう」と答えた。「その気持ちを、昭の正男にも向けてほしかったです」。私の言葉に、先はただ頷いた。類へ名をいたのは本でないのに、そこから『正男は自分ので辞めた』という話が作られた。
「先は、次のが別の所へ紹介し直されたのをっていましたね」
「定所から照会があった。そのあと俺も、直接会社へ話して確認した。だから次のには、予定を変えるよう連絡した」
私は驚いた。「止めたんですね」
「遅かった。正男君が先にらせなければ、もっと遅れていた」
先の目から涙が落ちた。「あの子は正しいことをした。俺はそれをっていながら、学の報告だけは直さなかった」。
私は先に尋ねた。「今、そのことを文に残していただけますか。ご自分の記憶と、確かめられる類を分けていてほしいんです」。先は頷いた。「妻に記を伝ってもらう。できるだけ正確にく」。
帰り際、奥さんが追いかけてきた。「主は昔のことをいすと、ずっと眠れなくなるんです」。私はち止まった。「お気持ちは分かります。でも、私の兄は、あの噂ので暮らしました」。奥さんは目を伏せた。「そうですね。夫にも、ようやく話すが来たんでしょう」。
数、さんから署名入りの陳述が届いた。
勤務先変更届へ正男の氏名を代し、本の同を確認しなかったこと。次の徒の発、正男から就業先の問題を告げられたこと。話による照会で学の案内に誤りがあると分かったのに、卒業者名簿を訂正しなかったこと。つずつかれていた。
私はそれを持ち、今度は兄のへ向かった。のくのさな借で、兄は暮らしをしていた。窓辺には鉢植えのねぎがあり、台所の戸棚には湯呑みがつあった。「友達が来ることもあるの」と尋ねると、兄は笑った。「の連が々な」。
私は陳述を広げた。兄は最初、読むのを嫌がったが、先の署名を見てを止めた。最まで読んだあと、を私へ返した。「先も歳を取ったな」。
「兄ちゃん。、何が番悔しかった?」
兄は台所へって湯を沸かした。やかんが鳴るまで答えなかった。ようやくをいたとき、声は静かだった。
「平田が痛がっていたのに、俺にはどうにもできなかったことだよ。俺たち、会社の名すら本当か分からなかった。子どもだったんだ」
私は初めて、兄が歳だったことを実した。写真のの兄はびて見える。でも、らない京で怪をした友達のために話を探したのは、学をたばかりの子どもだった。
「兄ちゃん、次のは助かった。
平田さんも病院へけた。だから、もう自分を責めなくても……」
「まだあるんだ」
兄は言葉を遮った。「あのとき、俺はつだけ母ちゃんに嘘をついた」。
「嘘?」
「『自分のために戻ったんじゃない』って言い切った。実は俺も、逃げたかった。夜、鉄板の音が止まらなくて、怖くて寝られなかった。平田があんなことになって、次は自分かもしれないとった」
兄は湯呑みを両で包んだ。「自分が怖かったことを認めたら、母ちゃんに見捨てられるとったんだ。でも、どっちにしても見捨てられたな」。
私は泣きそうになった。逃げたいとうほど怖い所からたことが、恥であるはずはない。兄はその気持ちを、自分のさだとっていた。
「母ちゃんが悪かった。私たちも、きちんと聞かなかった」
兄は首を振った。「美枝は歳だった。千はもっとさかった。おたちが悪いわけじゃない」。
私は言った。「でも、今はだから。これからは兄ちゃんの話を、最まで聞きたい」。
兄は窓のを見た。「母ちゃんは元気か」。私は頷いた。「腰はってきたけど、千が世話してる」。兄はそれ以聞かなかった。
部をる、兄が古い封筒を私へ差しした。『正男殿』と母の字でかれ、封は切られていなかった。差は昭。母が父の周忌にき、結局さなかっただと兄は言った。
「あれは材の社さんが預かっていて、ずっとあとに渡してくれた。俺、けられなかったんだ」。
私は返そうとしたが、兄は「美枝が持っててくれ」と言った。のをらないまま、私は鞄にしまった。母も兄も、お互いへ言えない言葉をこんなにく持ち続けていた。
広告
おすすめ作品
-
完結第16話
75万円を借りに来た私に、銀行が告げた65億円の秘密
十四年間、洋服直しの仕事を続けてきた石田牧は、自分の店を開くため、不足する75万円を借りに銀行を訪れた。ところが支店長から告げられたのは、自分に約65億円の信託財産があるという信じがたい事実だった。亡き母は大手物流会社の創業家の娘だったという。なぜ母は貧しい暮らしを選び、巨額の財産を隠し続けたのか。戸惑う牧の前に、初対面の叔父が現れ、21億円で株式を買い取ると申し出る。突然手にした財産の裏には、家族が長年隠してきた秘密と思惑があった。真実|第二の人生|親子関係|金銭問題2.3万字5 23 -
完結第12話
朝霧湯、最後の暖簾
昭和48年の暮れ。信州の小さな銭湯「朝霧湯」は、石油危機による灯油不足で休業の危機に追い込まれていた。主人の島田正一は、わずかに残った燃料と娘の進学費用を前に、店を閉める決断を迫られる。だが、風呂のない長屋に暮らす老人たちにとって、朝霧湯は欠かせない場所だった。妻の澄子や娘の千絵、商売敵だった銭湯の主人までが動き出すなか、正一は最後の一度だけ湯を沸かすことを考え始める。家族の暮らしを守るか、長年通い続けた客を迎えるか。昭和の町に生きた人々の葛藤と温もりを描く物語。時代|歴史|昭和|第二の人生|介護2.5万字5 0 -
完結第10話
手取り23万円の俺、旅館で妻が「お嬢様」と呼ばれた
手取り月23万円のトラック運転手・中村和也は、妻の彩佳と娘の結衣を何よりも大切にしていた。幼い頃、亡き父と交わした温泉旅行の約束を果たすため、毎月五千円を五年間積み立て、ようやく三十万円を貯める。結婚記念日に彩佳が選んだのは、山奥に佇む名門旅館「月影楼」。質素な暮らしの自分たちには場違いに思えたが、玄関に到着した途端、従業員が彩佳に深々と頭を下げた。「お嬢様、お帰りなさいませ」。妻が長年隠してきた過去とは何なのか。家族への愛と、思いがけない運命の再会を描く物語。人生逆転|夫婦|第二の人生|親子関係2.4万字5 119 -
完結第13話
昭和32年、町中が機を止めた日に織り続けた73歳の女
昭和32年、越前の織物町。工賃の値下げに抗議して女たちが一斉に機を止めるなか、73歳の坂井ヨシだけが織り続けていた。ぜんそくを患う孫の薬代を稼ぐためだった。しかし、納めた布の工賃は一方的に減らされ、仲間からは「裏切り者」と見なされてしまう。さらに急ぎの注文を引き受けたヨシは、傷ついた指と返せない手付金に追い詰められていく。家族を守るために働くことが、なぜ仲間を苦しめるのか。時代|歴史|昭和|第二の人生|絶縁2.8万字5 41 -
完結第12話
昭和39年、給食費泥棒にされた少女
昭和39年、村の小学校で給食費9,600円がなくなったと騒ぎになり、11歳の岸田和子は担任から泥棒だと決めつけられた。無実を訴えても信じてもらえず、和子は転校を余儀なくされる。それから35年。廃校となった母校で古い出納簿を見つけた和子は、問題の給食費が事件の二日前に全額入金されていたことを知る。なぜ教師は、なくなっていないお金を盗んだと少女を責めたのか。食数の合わない給食記録、突然退職した調理員、沈黙する元同級生。忘れられた帳簿を手がかりに、和子は35年間隠されてきた学校の秘密を追い始める。時代|歴史|昭和|真相3.1万字5 355