みかん小説
本棚

"手取り23万円の俺、旅館で妻が「お嬢様」と呼ばれた" 第2話

サンバイザーのパンフレット

也の弁当箱は、し季の入った段ねのプラスチック製だった。

毎朝、彩佳が持たせてくれるその弁当は、トラックの狭い運転席でもべやすいように細やかな夫が凝らされていた。甘めの卵焼き、の晩のおかずの残りをさく刻んで炒め直したもの、そして苔を巻いた俵型のおにぎりがつ。

配送センターの埃っぽい休憩所で弁当箱の蓋をけていると、隣のパイプ子に腰掛けた坂が、缶コーヒーのプルタブをパキリとけながら覗き込んでくる。

坂は歳。この会社でトラックに乗っているベテランで、は悪いが誰よりも輩の面倒見が良い男だった。也が入社したばかりの代の頃、荷崩れを起こさない積み込みの順序や、狭い裏でのバックの切り返し方を鳴り散らしながら叩き込んでくれたのもこの坂だ。

「おい、今も彩佳ちゃんの妻弁当かよ。仲が良いこったな」

「ええ、おかげさまで。片でべられるようにしてくれてるんで、助かるんですよ」

「千円の旅貯も、まだ続いてんのか?」

「はい。このでちょうどになりました。先の料で、目標だった万に届いたところです」

「……万か。したもんだよ、本当に」

坂は缶コーヒーをすすり、窓のに並ぶトラックの列を見つめながら、さく息を吐いた。

広告

「俺にはできなかったことだな。がねえほど、族との約束ってのは回しになっちまうもんだ。『今度な』『そのうちな』って言ってるうちに、子供はあっというにきくなって、気づいたにはもう誰も何もねだってこなくなる。頼んでも無駄だって、子供の方から諦めちまうんだよな」

坂がほどに婚し、それきり息子と顔をわせていないことは、社内の誰もがる公然の秘密だった。だが、坂自がその過を自らにすることは滅にない。也はかける言葉を見つけられず、ただ黙って俵型のおにぎりをに運んだ。

也自、子供の頃に族で旅へった記憶が度もない。

也の父・茂は、型トレーラーを転がす距ドライバーだった。度仕事にれば陸やまで荷を運び、ももを空けるのが当たりだった。たまに帰宅しても、昼は戸を閉め切った暗い部でのように眠っていた。

それでも、たまの休に目を覚ますと、父は也をトラックの助席に乗せ、所の川原までハゼ釣りへ連れてってくれた。そして、脂の抜けたきなで也のを撫でながら、癖のように笑ったものだった。

『也、いつか母さんも連れて、で温泉にこうな。美いもんって、でっかい呂に入ろう』

父の運転席のサンバイザーには、いつから挟まれているのか、どこかの温泉宿の観パンフレットが枚、折りたたんで差し込まれていた。

広告

あいの清流沿いに建つ、湯煙をげた古い旅館の写真。也が『どこにくの?』と尋ねると、父は『まだ決めてねえよ。でけりゃあ、どこだっていいんだ』とい歯を見せて笑っていた。

その約束が果たされるは、永に来なかった。

也が歳になったの、父は距運の途、名神速のパーキングエリアにめたトラックの仮眠台で倒れた。筋梗塞だった。同僚のドライバーが異変に気づいて窓を叩いたには、すでにたくなっていたという。享歳。

遺品として警察から返されてきたボストンバッグの底から、あのサンバイザーに挟まれていたパンフレットがてきた。何度も指で挟み直したのだろう、折り目の部分がくすり切れ、表面の温泉の写真も褪せていた。

それからの母のは、也をで育てるための労働に塗りつぶされた。朝から夜まで町の弁当で働き、油の匂いをにまとって帰ってくる母の姿を見て、也は「どこかへ連れてってほしい」という言葉を度とにしなくなった。

その母も、也が歳を迎えたに胃がんで世をった。通夜の席で、の同僚たちが「お母さん、うちの息子は本当にがかからない自の子だって、いつも嬉しそうに話してたんですよ」

と泣きながら教えてくれた。

母のアパートを引き払う際、押し入れの袋の奥から、也の学の通表と緒に、父のトラックのでで並んで撮った唯の族写真がてきた。也はその写真を、父の遺品だったあの褪せたパンフレットと同じ茶封筒に入れ、自分の机の引きしの奥くにしまった。

それから代半ばまで、也はずっときりできてきた。誰もいないアパートのたい畳に帰り、コンビニの弁当を温めてべる。それがの当たりだとい込んでいた。

彩佳と会い、結婚を決めた夜、也はその古びたパンフレットを彩佳に見せた。

『親父が果たせなかった約束なんだ。俺、いつか自分の族ができたら、絶対に温泉旅に連れてきたいって、ずっとそれだけをってきた』

彩佳は垢で汚れたパンフレットの端を両でそっと押さえ、い沈黙のに顔をげた。その瞳には涙が滲んでいた。

『じゃあ、私も緒に貯める。パート代からしずつ——』

『いいんだ。これは俺の遣いからす。彩佳の稼いだおは、結のために取っておいてくれ』

そうして始まったのが、毎千円の積みてだった。也にとってその通帳は、ただの貯ではなく、き両親との約束を果たし、しい族の台を築きげるための、何よりも尊い証拠だった。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: