"朝霧湯、最後の暖簾" 第7話
度だけの営業
の朝、燃料の久保田と、ボイラーを据え付けた設備業者の岸が釜へ来た。
岸は械の点検を済ませ、計量器の記録とタンクの残量を照らしわせた。正は夜から何度も計算し直したを差ししたが、岸は「まず実際の設備を見よう」と言って数字を確かめた。
「今とは焚かない、に限ってける。それならどうだ」
正が聞いた。
岸は配管の保温状態、湯の入れ替えに必な量、最に温度を保つを計算した。
「つの浴槽を通常どおり使うのは無理です。決まったに限ること。それと、凍結防止と始末に必な分にはをつけないでください」
「そこを削れば、もうしく――」
「駄目です」と岸はきっぱり言った。「始末ができないほど使ってしまえば、配管が壊れる恐れもある。壊れたら、次に油が届いてもかせない」
正は黙ってうなずいた。岸はさらに、適切な湯温を維持できなくなったら予定途でも客を入れないこと、営業終の清掃を省かないことを押しした。
そので、の営業はいに限って実施できるという見通しがついた。ただし候がひどくえ込めば、必な燃料が増えるかもしれない。正は「必ずける」と約束することを避けた。
午、澄子と千絵が町を回り、希望者へをらせた。
広告
先に聞いておいたをに、男湯と女湯それぞれの利用をく区切り、混みすぎないようにする。通常の入浴料を受け取り、勝な乗せはしない。その代わり、湯を使えるには限りがあることも正直に説した。
「今は度だけです。次の営業はまだ分かりません」
澄子がそう言うと、笑顔になるも、困った顔をするもいた。をけてくれるのは嬉しいが、からどうするのかという問題はそのままだ。
昼過ぎ、宮田がやってきた。
「朝湯はにだけけられそうだ。おのところへけなかった客は、できるだけこっちで受ける」
「朝湯の油はりるのか」
「余裕はない。正けは、同じように休むことになる」
は番台のにを並べた。ごとの営業、送迎の能な、連絡先。営業できる見通しのないは、無理に『予定』とかない。客を期待だけでのにたせないためだった。
千絵が言った。
「役のが、のくまで迎えに来るを検討してくれてる。全員は乗れないけど、の悪いから相談できるって」
「千絵、よく聞いてくれたな」と宮田が言った。
千絵は照れくさそうに笑った。
正は娘を見て、初めてった。自分にはを畳むか続けるかというつの選択肢しか見えていなかった。
広告
娘はその側で、が湯に入る方法を数え始めていたのだ。
午、瀬が話をくれた。
「の件、町から正式な援助を約束することはまだできません。ただ、の向こうの浴へ移する方法については交通担当が相談に乗ります。両方の浴の営業は、役の窓にも置きましょう」
「ありがとう。正休みなのに悪いな」
「私だって、この町で育ったんです。子どものころは朝湯にも通いました」
瀬はし笑った。
「ただつ、お願いがあります。燃料がりなくなったら、無理をしないでください」
正は釜を振り返った。
「分かってる。それは守る」
夕方、町内会の会が来た。歳の荒井は、い製材所を営んでいた男で、正の父とも顔なじみだった。
「おののために、をで運ぶんだって?」
「ああ。ただ、まだ決まったわけじゃない」
荒井はを鳴らした。
「朝湯も商売だろう。町ので客を運ぶのはおかしいというもいるぞ」
正は、をきかけて止めた。荒井の言い方は愉だったが、税を使うことに説が必なのは確かだ。
「俺のだけ得をするなら、おかしい。だが、呂のないが困っているのは、本当のことだ」
「じゃあ閉めればいい。これからはに呂のある代だ」
荒井の言葉に正は返事をしなかった。
荒井は帰り際、玄関の札を見げた。
「俺たちが若いころは、ここへ来れば誰かに会えた。だが、昔のままの商売じゃき残れんぞ」
閉まる戸の音を聞きながら、正は考えた。あのも違ったことばかり言っているわけではない。現に客は々減り、燃料もくなった。の危だけを越しても、先にき残れるとは限らない。
正は、帳面の最のページをめくった。父がを継いだころの記録が残っている。を改築した、男湯のタイルを張り替えた、洪で休んだ。父はいつも、最に『また』といていた。
正は鉛を握り、同じ所にこうとした。
だが、今度はけなかった。
『。けられれば、今最の営業』
そのは空にした。『また』と約束できないのに、くわけにはいかなかった。
広告
おすすめ作品
-
完結第16話
75万円を借りに来た私に、銀行が告げた65億円の秘密
十四年間、洋服直しの仕事を続けてきた石田牧は、自分の店を開くため、不足する75万円を借りに銀行を訪れた。ところが支店長から告げられたのは、自分に約65億円の信託財産があるという信じがたい事実だった。亡き母は大手物流会社の創業家の娘だったという。なぜ母は貧しい暮らしを選び、巨額の財産を隠し続けたのか。戸惑う牧の前に、初対面の叔父が現れ、21億円で株式を買い取ると申し出る。突然手にした財産の裏には、家族が長年隠してきた秘密と思惑があった。真実|第二の人生|親子関係|金銭問題2.3万字5 46 -
完結第10話
手取り23万円の俺、旅館で妻が「お嬢様」と呼ばれた
手取り月23万円のトラック運転手・中村和也は、妻の彩佳と娘の結衣を何よりも大切にしていた。幼い頃、亡き父と交わした温泉旅行の約束を果たすため、毎月五千円を五年間積み立て、ようやく三十万円を貯める。結婚記念日に彩佳が選んだのは、山奥に佇む名門旅館「月影楼」。質素な暮らしの自分たちには場違いに思えたが、玄関に到着した途端、従業員が彩佳に深々と頭を下げた。「お嬢様、お帰りなさいませ」。妻が長年隠してきた過去とは何なのか。家族への愛と、思いがけない運命の再会を描く物語。人生逆転|夫婦|第二の人生|親子関係2.4万字5 366 -
完結第12話
昭和46年、三日で逃げ帰った兄と消された就職記録
昭和46年、十五歳の正男は集団就職で東京へ向かった。しかし三日後、傷だらけで村に戻り、母に「家族を捨てるのか」と責められて家を追われる。それから26年。妹の美枝は、駅の記念展示を準備する中で、兄と一緒に旅立った少年三人の就職先が書き換えられた写真を発見する。約束された工場に入っていなかった少年たち、燃やされた契約書、口を閉ざす大人たち。なぜ兄は、次の就職列車を止めようとしたのか。長く「逃げ帰り」と呼ばれた帰郷の理由を、妹が追い始める。時代|歴史|昭和|絶縁|親子関係2.7万字5 109 -
完結第13話
昭和32年、町中が機を止めた日に織り続けた73歳の女
昭和32年、越前の織物町。工賃の値下げに抗議して女たちが一斉に機を止めるなか、73歳の坂井ヨシだけが織り続けていた。ぜんそくを患う孫の薬代を稼ぐためだった。しかし、納めた布の工賃は一方的に減らされ、仲間からは「裏切り者」と見なされてしまう。さらに急ぎの注文を引き受けたヨシは、傷ついた指と返せない手付金に追い詰められていく。家族を守るために働くことが、なぜ仲間を苦しめるのか。時代|歴史|昭和|第二の人生|絶縁2.8万字5 42 -
完結第12話
昭和39年、給食費泥棒にされた少女
昭和39年、村の小学校で給食費9,600円がなくなったと騒ぎになり、11歳の岸田和子は担任から泥棒だと決めつけられた。無実を訴えても信じてもらえず、和子は転校を余儀なくされる。それから35年。廃校となった母校で古い出納簿を見つけた和子は、問題の給食費が事件の二日前に全額入金されていたことを知る。なぜ教師は、なくなっていないお金を盗んだと少女を責めたのか。食数の合わない給食記録、突然退職した調理員、沈黙する元同級生。忘れられた帳簿を手がかりに、和子は35年間隠されてきた学校の秘密を追い始める。時代|歴史|昭和|真相3.1万字5 355