"シャッターを切らなかった日" 第1話
撮らないで
「撮らないで」
女の声がした瞬、僕の差し指はシャッターボタンので止まった。
昭469。俣の港へりる坂には、まだのが残っていた。坂の途にある仕ての戸で、本枝さんがミシンを踏んでいた。窓のから差すが、布を押さえるだけをく照らしている。指先はわずかに震えていたが、針の運びは正確だった。
僕はそのを撮ろうとした。正確には、撮ってしまいたかった。
「すみません」
カメラをろすと、枝さんは糸を切った。
「どうして、うちを撮るの」
「聞に、町の写真をせるかもしれなくて」
「町の写真なら、ももあるでしょう」
「でも、今の俣を伝えるには……」
言い終わらないうちに、彼女は笑った。った顔より、ずっと居が悪くなる笑い方だった。
「今の俣って、何?」
僕は答えられなかった。
僕の名は瀬航。歳。が終わると、浜通りの岸本写真館で現像を伝っている。料は週に度、茶封筒で渡される。父はチッソので設備の保全に携わり、母は駅で弁当を売っていた。にカメラを買う余裕はなかったが、岸本の親方が古い35ミリ判を貸してくれた。
その、俣には町のから記者が来ていた。駅の旅館できな材を抱えた男を見かけることも増えた。聞には「俣病」
広告
の文字が繰り返し載った。原因が排に含まれたメチル化物であることは、すでに政府の見解でも示されていた。それでも、何が終わり、何が終わっていないのかを、町のたちは毎違う言葉で話していた。
写真館で最初に覚えた仕事は、記写真の修だった。卒業写真の埃を消し、集写真の端にいるの顔が暗ければしるくする。親方は「顔を変えるな。見えるようにするだけだ」と言った。その言葉を僕は写真の技術だとっていた。誰かのを、撮った側の都で変えてはいけないというまで考えたことはなかった。
写真館の暗で、親方は僕の写真を見ながら言った。
「だけ写しても、よそ者には何も伝わらんぞ」
僕はだから、の煙突と、岸壁につながれたままの漁を撮った。病院へ向かう坂も撮った。けれど、それらはどこかで見たことのある写真に似ていた。僕が撮りたかったのは、枝さんのだった。苦労が目でわかるような気がしたからだ。
「が震えるところを写したかったの?」
枝さんが聞いた。
「……はい」
「私の仕事じゃなくて?」
ミシンの横には、仕がった紺の学が掛かっていた。袖はきれいに直され、裏の糸も目たない。彼女はその袖を広げて見せた。
「これは今、回縫い直した。持ち主は来、熊本の学を受けるんだって。
私はこのをにわせたい。それも、今の俣じゃないの」
僕はレンズの蓋を閉めた。
をると、港からがってくる男たちがの方角を見ながら何か話していた。角の堂では、昼の定がまだ売り切れていない。いつもの町なのに、カメラを構えた途端、僕には誰もが何かを証言するに見えていた。
写真館へ戻ると、親方が封筒をつ差しした。差は、県内の方で働く哲夫という記者だった。来の特集に向け、俣で暮らす々の写真を探しているらしい。
封筒にはい依頼文が入っていた。
《読者のをかす、い枚を》
僕は枝さんのので撮らなかった枚をいした。
あの写真なら、きっとかった。
だからこそ、指がかなかった理由を、僕はまだらなかった。
広告
おすすめ作品
-
完結第20話
死んだ母を名乗る女
母を亡くして二年。三十歳の浅沼美咲は、空き家となった実家を片付けている最中、郵便配達員から思いがけない言葉を告げられる。「先月もお母様にお会いしましたよ」。亡くなったはずの母を名乗り、郵便物を受け取っている女がいるというのだ。家の中に残された生活の痕跡、天井裏から聞こえる不審な物音、そして母宛てに繰り返し届く現金書留。兄とともに調べ始めた美咲は、疎遠だった叔母の影と、母の遺産をめぐる不穏な思惑に気づく。死者の名を使ってまで隠そうとした秘密とは。真相|親子関係2.3万字5 20 -
完結第12話
消えた路地の矢印
昭和39年、東京オリンピックを目前に控え、東京の街は急速に姿を変えていた。23歳の標識職人・黒田俊も、新しい道路の案内板を作る仕事に追われていた。ところが工事によって古い路地が封鎖され、診療所へ通う老人や商店の人々が行き場を失い始める。立ち退きを迫られる活版所の親子、変わり続ける迂回路、そして正しいはずの標識に迷わされる人々。時代|歴史|昭和|真相|修羅場2.8万字5 31 -
完結第12話
朝霧湯、最後の暖簾
昭和48年の暮れ。信州の小さな銭湯「朝霧湯」は、石油危機による灯油不足で休業の危機に追い込まれていた。主人の島田正一は、わずかに残った燃料と娘の進学費用を前に、店を閉める決断を迫られる。だが、風呂のない長屋に暮らす老人たちにとって、朝霧湯は欠かせない場所だった。妻の澄子や娘の千絵、商売敵だった銭湯の主人までが動き出すなか、正一は最後の一度だけ湯を沸かすことを考え始める。家族の暮らしを守るか、長年通い続けた客を迎えるか。昭和の町に生きた人々の葛藤と温もりを描く物語。時代|歴史|昭和|第二の人生|介護2.5万字5 158 -
完結第12話
昭和46年、三日で逃げ帰った兄と消された就職記録
昭和46年、十五歳の正男は集団就職で東京へ向かった。しかし三日後、傷だらけで村に戻り、母に「家族を捨てるのか」と責められて家を追われる。それから26年。妹の美枝は、駅の記念展示を準備する中で、兄と一緒に旅立った少年三人の就職先が書き換えられた写真を発見する。約束された工場に入っていなかった少年たち、燃やされた契約書、口を閉ざす大人たち。なぜ兄は、次の就職列車を止めようとしたのか。長く「逃げ帰り」と呼ばれた帰郷の理由を、妹が追い始める。時代|歴史|昭和|絶縁|親子関係2.7万字5 221