"大正、子守奉公の少女" 第2話
井戸端の母
子守りには、終わりの刻がなかった。朝、女主が竈にを入れるから赤ん坊を背負い、夕方、族が膳を囲んでからも背負っていた。赤ん坊が寝ればろしてよいと言われたが、布団に置いた途端に泣きすので、結局また背へ戻す。
私は寝かせ方を覚えるより先に、泣き声の違いを聞き分けるようになった。
腹が減った泣き方、眠くてぐずる泣き方、がこもって苦しい泣き方。最初はどれも同じに聞こえたが、しずつ分かるようになった。ところが分かったからといって、私にできることが増えるわけではない。
乳を欲しがれば女主を呼びにり、があればの判断を待つ。私に任されたのは、赤ん坊を落とさず、泣かせず、目の届くところに置くことだった。
同じごろの子どもたちは、畑のあぜや端で遊んでいた。を蹴りながらる姿を見ると、が勝にそちらへ向きそうになる。しかし背の子がけば、私はすぐにち止まった。遊びの輪のに入るには、背負っているものを誰かに渡さなければならない。
その誰かは、どこにもいなかった。
ある、井戸へを汲みにくと、母が先にいた。母は私を見て、桶を持つをわずかに止めた。私はわず「おっかあ」と呼びかけたが、ちょうど奉公先の女主が勝から顔をした。
広告
「はまだかい。赤ん坊をやすんじゃないよ」。母は何も言わずに桶を持ちげ、私の横を通り過ぎた。
その晩、母がたかったのか、私を守ろうとしたのか、考えた。よそのの仕事の最に話し込めば、私が叱られることを母はっていたのかもしれない。だがの私には、母の背があまりに素くざかったことだけが残った。
泣くと赤ん坊が起きるので、布団ので息を殺した。
梅のころ、赤ん坊の背に汗疹ができた。女主は私に、背負い方を緩めてを通すように言った。私は布を枚挟み、泣き声が変わるたびに紐を直した。翌、赤みがし引くと女主は「昨よりいいね」と言った。
誰かに教えられたことをそのまま繰り返すだけではなく、目のの子の様子を見て夫してもよいのだとった。
その、背の子が初めて私の名らしい音をにした。はっきりした言葉ではなかったが、私が振り向くとを伸ばした。私はわず抱きげ、女主に見せにった。女主は笑って「懐いているんだね」と言った。嬉しいのに、なぜか胸が痛んだ。
実の末の弟が言葉を覚えるころ、私はそばにいられなかった。その子が最初に誰の名を呼んだのか、私はらないままだった。
になると、背の子はくなった。自分のもし伸びたのだろうが、背負い紐が肩に作る跡は濃くなるばかりだった。
広告
のは庭を歩けず、座敷と廊をったり来たりした。
畳の縁を何度踏んだか分からないほど往復すると、女主が「そんなところを歩き回ると邪魔だよ」と言う。私は謝って台所へ移り、今度は「のそばに寄せすぎるな」と叱られた。
それでも赤ん坊には、私の顔を見て笑うがあった。背からろしたとき、さなが私の指をつかんでさない。あので私が何かをしてよかったとえるのは、たいていその瞬だった。
女主に褒められることはなかったが、赤ん坊が眠ってくれれば、その夜はしく飯にありつけた。
奉公にて度目の、私は井戸で母にまた会った。今度は向こうから「元気か」とさく尋ねられた。私は答えるに、母のがひどく荒れていることに気づいた。をれているにも、母は母の仕事を続けていたのだ。
私は「うん。飯はべてる」とだけ言った。それが、母をさせる言葉だとった。
広告
おすすめ作品
-
完結第20話
昭和62年、国鉄最後の日に駅弁を一つ売らなかった理由
昭和62年3月31日、国鉄最後の日。森渡駅で三十年以上、鶏めし弁当を売り続けてきた宮原澄江は、最後の一個を売らずに残した。翌日から駅の売場はなくなり、長年守ってきた商売も岐路に立たされる。新しい販売条件、息子が勧める国道沿いの店舗、従業員たちの生活。変わりゆく町で、澄江は初めて自分の仕事と向き合い始める。なぜ彼女は、最後の弁当を売らなかったのか。時代|歴史|昭和2.8万字5 85 -
完結第17話
忘れたコートが教えてくれたこと
結婚式まであと3週間。高橋ゆいは婚約者・博人の実家に忘れたコートを取りに戻り、衝撃的な会話を耳にする。食卓に広げられていたのは、祖母から相続した自分のマンションを、博人の実家が営む会社の追加担保にする計画書だった。しかも本人への説明は「婚姻後1週間」の予定。14人の従業員を守るためだと訴える婚約者の母と、すべてを知りながら黙っていた博人。人生逆転|裡切られた|夫婦|真相|修羅場2.0万字5 412 -
完結第20話
死んだ母を名乗る女
母を亡くして二年。三十歳の浅沼美咲は、空き家となった実家を片付けている最中、郵便配達員から思いがけない言葉を告げられる。「先月もお母様にお会いしましたよ」。亡くなったはずの母を名乗り、郵便物を受け取っている女がいるというのだ。家の中に残された生活の痕跡、天井裏から聞こえる不審な物音、そして母宛てに繰り返し届く現金書留。兄とともに調べ始めた美咲は、疎遠だった叔母の影と、母の遺産をめぐる不穏な思惑に気づく。死者の名を使ってまで隠そうとした秘密とは。真相|親子関係2.3万字5 1197 -
完結第20話
シャッターを切らなかった日
昭和46年、水俣。写真館で働く17歳の村瀬航一は、町の現実を新聞に伝えようと、仕立て屋の橋本夏枝にカメラを向ける。しかし、彼女から「撮らないで」と拒まれた後、以前撮った手の写真が本人の了承なく新聞に掲載されてしまう。その一枚は夏枝の仕事と暮らしに思わぬ影響を及ぼした。工場で働く父、被害を訴える住民、善意で支援する人々。それぞれの事情に触れるなかで、航一は問い始める。人の苦しみを伝えることと、その人の人生を勝手に語ることは、同じなのだろうか。激動の昭和を背景に、写真と人間の尊厳を描く物語。時代|歴史|昭和|真相2.7万字5 57 -
完結第12話
消えた路地の矢印
昭和39年、東京オリンピックを目前に控え、東京の街は急速に姿を変えていた。23歳の標識職人・黒田俊も、新しい道路の案内板を作る仕事に追われていた。ところが工事によって古い路地が封鎖され、診療所へ通う老人や商店の人々が行き場を失い始める。立ち退きを迫られる活版所の親子、変わり続ける迂回路、そして正しいはずの標識に迷わされる人々。時代|歴史|昭和|真相|修羅場2.8万字5 46