"離婚して10年、元夫が鍵を替えなかった理由" 第6話
便箋に滲んだの朝
つ折りにされた便箋を広げると、カサリと乾いたの音が静まり返ったリビングに響いた。
万のい青のインクでかれた文字は、几帳面で、し角ばっていて、違いなく正彦の跡だった。技術者として図面を引き続けてきた彼の癖が、そのままのに残っている。
息を詰めるようにして、みつ恵はその目に目を落とした。
『みつ恵。で言えないので、いておく』
飾らない、置きも何もない、あまりにも正彦らしいきしだった。
『おが寂しかったのは、っていた。夕飯のも、休みのに配膳を並べているも、何か言わなければといながら、何を言えばいいのか分からなくなった。言葉を探しているうちにばかりが過ぎて、結局、何も言えずに聞を広げて逃げていた。それは全部、俺が悪い。おをらせているんじゃないか、つまらないいをさせているんじゃないかと怯えていただけだ』
文字を追うみつ恵の界が、急激に歪んでいく。
(っていたの……? あの静けさので、このも苦しんでいたの……?)
会話のない卓で、聞の向こうに隠れていた夫の顔をいす。ただ嫌で、妻に関がないのだとばかりい込んでいた。だが、あのの向こうで、この男は器用に言葉を探し、見つけられない自分を責め続けていたのだ。
広告
は、さらに続いていた。
『婚届を置かれた、引き止める資格は俺にはないとった。おを以も寂しい所に縛り付けてしまったのは事実だからだ。でも、あの最の朝、玄関でおが靴を履いているのを見て、どうしても放せないものがあった。あの朝、「鍵は」と聞いたのは、返せというつもりじゃなかった。持っていけ、と言いたかったんだ。でも、声にならなかった』
胸の奥が、ぎゅっと握りつぶされたように痛んだ。
あの朝の玄関。暗がりので「鍵は……」と途切れ途切れに呟いた正彦の姿が、鮮に蘇る。
あの、みつ恵は「郵便ですぐに返します」と答えた。それを聞いた正彦は、何かを言いかけて喉の奥でみ込み、そのまま黙り込んでしまったのだ。
『帰って来いとは言わない。言えるでもない。おがしい所で、誰かと笑って暮らしているなら、邪魔をする気もない。ただ、もしものがたくて、どこにもく所がなくなったとった、ここだけはまだおのだとっていてほしい。その鍵が元にある限り、おには帰る所がある。来なければ、それでもいい。ただ、鍵だけは持っていてくれ』
便箋の最のだけが、インクが滴でし滲んでいた。
のの朝、このをき終えた正彦が、どんな顔でそのインクを落としたのか。
広告
像しただけで、みつ恵の膝から力が抜け、そのに崩れ落ちるように座り込んでしまった。
を胸に抱きしめ、みつ恵は声をげて泣いた。
、度もにすることができなかった夫の本音が、もの、埃ひとつない引きしの奥で、静かに彼女を待ち続けていたのだ。
「馬鹿ね……本当に、にも程があるわよ……」
掠れた声で呟きながら、みつ恵は涙を拭った。
りも、みも、の寂しさも、すべてが温かい涙となって流れ落ちていくようだった。
壁の計を見ると、針は夕方のを指していた。病院の面会は、午までだ。
みつ恵はちがり、引きしから正彦のお薬帳と保険証、そして印鑑を切に鞄にしまった。それから寝のクローゼットをけ、丁寧に畳まれて並んでいた清潔な着とパジャマ、タオルを組、袋に詰めた。
玄関へ戻り、靴を履く。
がり框に揃えられた、桃のスリッパが目に入った。
かかとの擦り切れたその布を、みつ恵は指先でそっと撫でた。
「……待たせてごめんね」
さな声でそう告げると、みつ恵は部のかりを消し、静かにドアを閉めた。
カチャリと鍵をかけ、さな赤い根のキーホルダーをぎゅっと握りしめて、彼女は病院へと向かう夕暮れのを駆けした。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
戸籍の中のもう一人の妻
海外赴任中の夫・健太に頼まれ、横浜の区役所を訪れた結衣。ところが戸籍の配偶者欄には、見知らぬ女性の名前があった。しかも婚姻日は、結衣が入院した母の看病に追われていた去年の夏。七年間信じてきた夫は、イギリスで別の女性と暮らしながら、日本では何食わぬ顔で優しい夫を演じ続けていた。さらに、二人で貯めたお金まで使われていたことが分かる。結衣は夫を問い詰めず、静かに証拠を集め始めた。夫が積み重ねてきた嘘を、彼女はどう暴いていくのか。人生逆転|裏切られた|夫婦|絶縁|不倫1.3万字5 9 -
完結第12話
義妹の荷物40箱を拒否したら、夫の勝手な約束が発覚
五十六歳のかず子の家に、義妹が経営するネットショップの商品が突然四十箱も届いた。預かると聞いていたのは小さな荷物だけ。受け取りを断ると夫は激怒し、かず子が大切にしている二階の六畳間を倉庫にすればいいと言い放つ。そこは、三十年以上家族を優先してきたかず子が、ようやく手に入れた自分だけの場所だった。さらに翌朝、配送会社から渡された書類には、身に覚えのない集荷予定と自分の名前が。夫と義妹は、かず子に何をさせるつもりだったのか。裏切られた|兄弟姉妹|夫婦1.8万字5 51 -
完結第12話
義母が倒れたと伝えたら、義兄嫁は葬儀を楽しみにした
山あいの村で農業を営む金田のぞみは、夫と義母、息子と穏やかに暮らしていた。ところが、農家を見下す義兄嫁の美香が、夏休みの間、二人の子どもを突然預けてくる。忙しい収穫期に子どもの世話まで重なり、無理を続けた義母は熱中症で倒れてしまう。 慌てて連絡したのぞみに、美香は心配するどころか、葬儀になれば仕事を休めると笑い出した。翌日、旅行気分で義実家を訪れるという美香。これまで我慢を重ねてきたのぞみは、ある決意を固める。嫁姑|夫婦|絶縁1.3万字5 166 -
完結第12話
「寄付は千円ぽっち」笑われた老夫婦の30年の秘密
町内会の夏祭りで、寄付が千円しかないと笑われた68歳の静子。古い自転車に乗り、夫の勉と慎ましく暮らす彼女は、婦人会長から「ケチな人」と見下され、記念式典の受付役まで外されてしまう。それでも静子は言い返さない。夫婦には、30年間、毎月15日に欠かさず続けてきた秘密の約束があった。やがて婦人会の記念式典に、育英基金の支援で大学を卒業した青年が現れる。青年が大切に持っていた一通の手紙をきっかけに、会場の空気が思いがけない方向へ変わり始める。人生逆転|夫婦|真実|金銭問題1.9万字5 499 -
完結第12話
同窓会で「席はない」と笑われた私に、若女将が一礼
七十歳になった水野春江は、亡き夫との約束を胸に、地元の老舗旅館で開かれる古希の同窓会に出席する。ところが受付で、幹事の麗子から「会費未納だから席はない」と告げられ、皆の前で仲居扱いされてしまう。確かに春江は、この旅館で掃除も布団運びもしている。だが、その理由を麗子は知らなかった。高校時代から続く嫉妬、勝手に消された名簿、そして欠席するはずだった恩師のために用意された席。五十一年ぶりの再会をきっかけに、春江が長年大切にしてきたものが明らかになっていく。人生逆転|第二の人生|金銭問題1.9万字5 41 -
完結第12話
150万円を払わせたママ友、次は寿司300万円
夫の昇進祝いで家族とレストランを訪れたひまり。楽しい食事の最後に告げられた会計は、なんと150万円。原因は、顔見知り程度のママ友・ぽて子一家が大量の料理を注文し、勝手にひまりへ支払いを押しつけたことだった。仕方なく立て替えたものの、返金を求めると渡されたのは、まさかのポテトチップスの空袋。しかも数日後、ぽて子は高級寿司店で新たな計画を立て始める。「ママ友なんだから払って当然」と言い張る一家に、ひまりが取った行動とは?因果応報|夫婦|真相|親子関係|金銭問題|修羅場1.2万字5 24 -
完結第10話
父の葬儀中「飯を作れ」と怒鳴った夫に、参列者が…
父の葬儀で喪主を務める美穂のもとに、夫・健一から何度も電話がかかってきた。用件は「今すぐ帰って飯を作れ」という身勝手な要求だった。二十年間、夫の暴言と厳しい金銭管理に耐えてきた美穂。父との最後の別れさえ邪魔され、ついに参列者の前で夫の怒声が響き渡る。すると、最後列に座っていた一人の男性が立ち上がった。その人物は亡き父の教え子で、健一とも思いがけないつながりがあった。因果応報|怒り|夫婦|親子関係|修羅場1.6万字5 514 -
完結第12話
結婚23年目、35万円を渡した妻が持ち帰ったもの
結婚23年目、妻の三重が久しぶりに山あいの実家へ帰りたいと言い出した。夫は母親との時間を楽しんでほしくて、35万円を持たせて送り出す。数日後、三重が持ち帰ったのは、古い着物とアルバム、そして母親からの一通の手紙だった。封筒には「今まで言えなかったこと」と書かれていた。手紙を読み進めるうちに、夫は妻が長年胸にしまってきた思いを知る。何不自由なく暮らしていると思っていた23年間。人生逆転|夫婦|相続|第二の人生|親子関係1.2万字5 591 -
完結第14話
赤飯を炊いた朝
昭和38年、福岡県筑豊の炭鉱町。閉山が告げられた朝、食堂を営む澄子は赤飯を炊いた。坑夫の夫・昭吉は激怒し、同じ炭鉱で働く息子も母を責める。町では「閉山を喜んでいる」と噂され、長年の友人からも拒まれてしまう。 けれど澄子には、どうしても赤飯を炊きたかった理由があった。仕事を失う夫、炭鉱に残ろうとする息子、看護婦を夢見る娘。店の経営も苦しくなるなか、澄子は家族のこれからを考え始める。時代|歴史|昭和|第二の人生2.6万字5 75