"スイスへ消えた妻" 第1話
成田空港のロビーは、驚くほど静かでした。
私ののにあるのは、スイスきの航空券。
往復ではありません。
片切符です。
つい先ほど、私は区役所で転届をしてきました。窓の職員が淡々と類を確認し、印を押す。そのさな音を聞いた瞬、私ので何かが静かに終わりました。
民票から、私の名が消える。
たったそれだけのことなのに、肩に乗っていたいがすっとれたような気がしました。
私の名は藤崎陽子。
今で歳になります。
数まで、私は嵐陽子としてきていました。夫である嵐達也を支え、嵐商事という会社のために、を削るように働いてきました。
けれど、もう終わりです。
私は今、すべてを捨ててこの国をます。
今頃、達也さんは聖都医科学病院にいるはずです。きっと満面の笑みを浮かべているでしょう。
彼の、松島玲奈さんが産を迎えているからです。
「陽子は産めなかった。でも玲奈は違う。俺の子を宿してくれた」
達也さんは、そう言って私に婚届を突きつけました。
義父の総郎さんも、義母の義子さんも、当然のようにそれを受け入れました。彼らにとって、私はもう用済みだったのです。
しい跡取りがまれる。
だから私は、いらない。
私は鞄のからさなSIMカードを取りしました。
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さっきまで使っていたスマートフォンのチップです。
指先でつまむと、それは驚くほどさく、頼りなく見えました。
私は迷わず、それを空港のゴミ箱へ落としました。
カラン、と乾いた音がしました。
その音で、私の過とのつながりが完全に断たれた気がしました。
もう誰からの話も、LINEも届きません。達也さんが私を探そうとしても、無駄です。
私はく息を吸いました。空港のたい空気が肺の奥まで入ってきます。
その頃、私のらない所で、運命の歯はきく狂い始めていました。
聖都医科学病院の分娩は、お祭りのような騒ぎだったそうです。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
元気な産声が廊に響きました。
分娩の扉がき、護師が笑顔でてきます。
「おめでとうございます。千百グラムの元気な男の子ですよ」
その瞬、達也さんは拳を握りしめ、義母の義子さんは涙を流したといいます。義父の総郎さんも、満そうに頷いたことでしょう。
「やったぞ。嵐の跡取りだ」
「これで会社も泰ね。あの嫁を追いして正解だったわ」
彼らはまれたばかりの赤ん坊を抱こうと、先に分娩へ入ろうとしました。
けれど、その歓は瞬で凍りつきます。
を着たの医師が、い取りでづいてきたからです。産婦科の部であり、義父の古いでもある先でした。
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先の顔には、笑顔がありませんでした。
彼は達也さんの肩をつかみ、廊の隅へ連れていきました。
そして、周囲の親族にも聞こえるほどく、はっきりした声で言ったのです。
「達也くん。君は何をんでいるんだ」
達也さんは、が分からないという顔をしたそうです。
「先、何を言ってるんですか。俺の息子がまれたんですよ。俺の血を引いた子供が」
先はくため息をつき、に持っていたカルテを達也さんのに差ししました。
「君は忘れたのか。の精密検査の結果を」
そこには、医学な専用語が並んでいました。
けれど、先の次の言葉は、誰にでも分かる残酷な事実でした。
「君は先性の無精子症だ。まれつき、子供を作る種がない。医学に、君が自然妊娠で子供を授かる確率はゼロパーセントだ」
廊の空気が、ぴたりと止まったそうです。
達也さんの顔から血の気が引いていきました。
義母の義子さんはをけたまま、声をせませんでした。
「む、無精子症……? 僕が……?」
達也さんの震える声が、静まり返った廊に落ちました。
先は鏡の奥の鋭い目で、分娩の方を見ました。
そして静かに告げました。
「だとすれば、今あそこでまれた子は、体誰の子なんだ?」
その問いは、鋭い刃のように嵐の々の胸を貫きました。
幸せの頂点から、獄の底へ。
すべてが崩れ落ちる音がしたはずです。
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