"消えた3506号室" 第2話
キッチンに入ると、さな蛍灯をつけた。いが、静かな空を照らす。
蔵庫から、昨晩のうちにごしらえしておいた昆布と煮干しを取りす。30、毎欠かさず引いてきた番だし。その順は、呼吸をするのと同じくらい自然だった。
鍋のが静かに温まり始めると、秀夫は昆布と煮干しをそっと滑り込ませた。やがて、こぽこぽというよい音とともに、く澄んだりがキッチンに満ちていく。
汁を取る、秀夫は副菜の準備をめた。
昨漬けたきゅうりの浅漬け。ほうれんのおひたし。弓が好物だと聞いた記憶から、毎朝欠かさず作る品だった。醤油と鰹節で、控えめにをえる。
そして卵焼き器に油を引き、汁巻き卵を焼いた。
これは息子の拓也が幼い頃から好きだったものだ。焦げつかないようで慎に卵液をね、ふっくらと黄に巻きげていく。
完成すると、秀夫はさく息を吐いた。
今こそ、拓也はでもべていってくれるだろうか。
だが、その期待はすぐに諦め混じりのため息に変わった。どうせまた見向きもされない。そう分かっていても、秀夫は毎朝、卓をえずにはいられなかった。
午7。湯気のつ噌汁、焼きたての汁巻き、浅漬け、炊きがった米が卓に並んだ。箸置きに箸を揃え、おしぼりまで用する。
広告
細部にまでを込めることが、秀夫の揺るがない信条だった。
午8過ぎ、寝のドアがき、拓也がスーツ姿で現れた。級腕計を首にはめ、髪をえながらリビングへてくる。
「拓也、朝飯できてるぞ」
秀夫はできるだけるく声をかけた。
しかし拓也は、卓をちらりと見ただけだった。壁の計を確認し、に玄関へ向かう。
「悪い、親父。もうないから」
それだけ言って、ドアは閉まった。
その音が、リビングにたく残る。
もなく、弓も部からてきた。髪を軽くえた彼女は卓を見るなり、迷惑そうに眉を寄せた。
「お義父さん、だからいいって言ってるじゃないですか。私たち、朝はパンじゃないとダメなんです。ご飯なんてべたら、胃がもたれて仕事にならないんですよ」
弓は蔵庫からパンとジャムを取りし、無表でトースターに入れた。
秀夫は1、卓の子に腰をろした。まだ温かい噌汁をすする。
き妻との最の約束は、拓也たちを温かい庭で支えてやってほしい、というものだった。
だが、このにあるのは温かさではない。
分くたい、見えない壁だけだった。
3の。
蝉しぐれがアスファルトのをさらに煽るような蒸し暑いだった。
最の妻がい闘病の末に旅ってから、まだ半も経っていなかった。
広告
区に残された古い軒は、妻の笑顔が消えた途端、空っぽの箱のようになった。
1で夕を作る虚しさ。テレビの笑い声が夜更けに々しく響く夜。いが染みついた壁や柱を見るたび、涙が込みげた。
30守り抜いたラーメンにっても、かつてのは戻らなかった。客の「うまい」という声も、くで鳴る音のように聞こえた。
そんな秀夫の姿を見かねたように、拓也が切りしたのは、ある週末のことだった。
「親父、もうもも処分して、俺たちと緒にまないか」
妻の弓を連れて実を訪れた拓也は、真剣な差しで秀夫を見た。
「1でこんな広いにいたって寂しいだけだろ。もうすぐ俺たちにも子どもができるかもしれない。そうなったら、親父がそばにいてくれたらいよ」
その言葉に、秀夫は潤んだ目で息子を見返した。
同居など、考えたこともなかった。
すると、隣に座っていた弓が柔らかな笑みを浮かべ、秀夫のに自分のをねた。
「そうですよ、お義父さん。私、お義父さんが1でいるのを見るのがつらくて。私たちと緒なら、お互いに支ええるじゃないですか」
その優しい響きと温かいの触が、乾き切っていた秀夫のに染み込んだ。
自分は1ではなかった。
そうった瞬、秀夫の目から涙があふれた。
決断はかった。
秀夫は、をかけて築きげてきたすべてを差しす覚悟を決めた。
まず、30守ってきたラーメンを4000万円で売却した。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
泥まみれの客と黒塗り5台
土砂降りの夜、タクシー運転手の佐藤美咲は、泥だらけで道端に立ち尽くす1人の老人を見つけた。 他のタクシーは、車が汚れることを嫌って次々と通り過ぎていく。中には、老人をあざ笑い、泥水まで浴びせて走り去る運転手もいた。 月末までにノルマを達成できなければクビ。幼い娘の手術を控え、仕事を失うわけにはいかない美咲も、一瞬だけ迷った。 それでも彼女は車を止める。 「シートなんて洗えばいいんです」 そう言って老人を乗せ、傘を差し、温かい缶コーヒーを手渡した。 しかし翌朝、美咲を待っていたのは、汚された車両と突然の解雇通告だった。 泣き崩れる彼女の前に、5台の黒塗りの車が営業所へ現れる。 昨日の泥だらけの老人は、いったい何者だったのか。 たった1本の缶コーヒーが、彼女の人生を大きく変えていく――。因果応報|人生逆転1.8萬字5 319 -
完結第12話
200円の家族
23歳の大学生・高橋翔太は、感情を捨てたように生きていた。 友人の誘いも断り、食事も会話もすべてを「合理的かどうか」で判断する日々。そんな彼が、ある日ファミレスで会計できずに困っている母子と出会う。 所持金は300円。小さな娘を連れた母親は、夫に貯金を持ち逃げされ、住む場所さえ失っていた。 翔太は不足分の200円を支払い、さらに母子を自分の部屋へ連れて帰る。最初はただの合理的な判断。そのはずだった。 しかし、温かい手料理、少女の「ありがとう」、そして夜中に聞こえた小さな泣き声が、5年間閉ざしていた翔太の心を少しずつ揺らしていく。 なぜ彼は笑わなくなったのか。 なぜ「感情は判断を誤らせる」と言い続けるのか。 助けたはずの母子との出会いは、やがて翔太自身が封じ込めてきた過去を呼び覚ましていく――。因果応報|人生逆転1.9萬字5 349 -
完結第13話
止まったカードと空の家
夫の正文が「会社の旅行」と言って家を出た朝、私はすべてを知っていた。 行き先で待っているのは会社の同僚ではなく、高校時代からの親友・美津。しかも夫は、私名義のクレジットカードを勝手に使い、親友との食事や買い物にまで手を出していた。 泣いて問い詰めることはしなかった。証拠はすでにそろっている。娘も、父親の異変に気づいていた。 「引っ越すよ」 夫が浮気旅行を楽しんでいる間に、私は娘と新しい家へ向かった。そして夫のカードを止め、彼の荷物を“ある場所”へ送りつける。 旅行先で支払いができなくなった夫。荷物を受け取った親友の家。そして、空っぽの部屋へ戻ることになる裏切り者。 夫と親友を同時に失った私が、娘と本当の人生を取り戻すまでの物語。夫婦|親子関係|不倫1.9萬字5 3387 -
完結第14話
元嫁の15枚返し
離婚から3日後の午前5時。佐藤恵子の携帯に、元姑から突然電話がかかってきた。 「今すぐ来て、法事の料理を用意しなさい」 12年間、家事も介護も金銭の穴埋めもすべて背負ってきた恵子。だが夫は秘書と関係を持ち、姑と義妹は彼女を使用人のように扱い、最後には荷物同然に家から追い出した。 それでも彼女たちは、恵子がいなくなって初めて、自分たちの生活が何によって支えられていたのかを知ることになる。 恵子名義の15枚のカード。 義父が病室で密かに残した遺言。 そして、10億円のペントハウスの本当の所有者。 元嫁を見下していた家族が、最も頼り切っていたものを一つずつ失っていく中、恵子は静かに告げる。 「あなた方は、もう私とは何の関係もない人たちです」 これは、“良い嫁”でいることをやめた女性が、自分の名前で人生を取り戻すまでの物語。因果応報|嫁姑|絶縁2.0萬字5 13400 -
完結第12話
一万八千円の飯
自分の家族が経営する5つ星ホテルで、何気なく注文した一品の炊き込みご飯。 メニューでは1,800円に見えたはずなのに、会計明細には「18,000円」と記されていた。 帰国したばかりの後継者・小川優馬は、単なる表示ミスだと思い責任者を呼ぶ。だが、レストラン責任者は「社長が承認した価格です」と言い切った。 父が守ってきたホテルで、なぜ一杯のご飯が10倍の値段になっているのか。 優馬が調べ始めると、異常な価格変更、不可解な仕入れ、法人客への不自然な請求、そして継母・里見の影が浮かび上がっていく。 やがてその小さな違和感は、20年前に亡くなった実母・秋子の死、奪われた母方の財産、腹違いの弟の秘密、そして恋人だと思っていた女性の正体へとつながっていく。 始まりは、たった一杯の炊き込みご飯だった。 だが、その18,000円の明細は、運海ホテルに隠された20年越しの闇を開く鍵だった――。因果応報|修羅場1.7萬字5 850 -
完結第8話
白タク墓参り
夫の命日、私は嫁と孫を連れて墓参りへ向かった。 帰り道、見知らぬ白いタクシーの運転手は、嫁と孫を墓地に残したまま、私だけを乗せて急発進する。 「お客さん、気づいてないの?」 そう言った運転手は、嫁が私の命を狙っていると告げた。けれど、話を聞くうちに私は小さな違和感を覚える。 なぜこの男は、孫の名前を知っているのか。 なぜ嫁の悪口を言いながら、何度も家の名義や権利書の話へ戻るのか。 逃げ場のない車内で、私は亡き夫の言葉を思い出す。 「困った時ほど慌てるな」 鞄の底に入れた携帯電話、孫が書き写した車の番号、そして嫁だけが気づいた不自然な話し方。 離れ離れになった家族が残した小さな手がかりが、やがて1本につながっていく――。因果応報|夫婦|修羅場1.2萬字5 1031 -
完結第9話
ブサ婿の正体
毒親に支配され、家の借金を返すための道具として生きてきた長嶋咲。 父は恐怖で縛り、母は涙で罪悪感を植えつける。進学も、仕事も、お金も、すべて親の都合で奪われてきた咲は、ついに資産家の息子・御堂剛との結婚まで勝手に決められてしまう。 相手は地味で冴えない男性。愛情などない、ただの取引結婚――咲はそう割り切るしかなかった。 しかし結婚初夜、2人きりになった途端、剛は静かに口を開く。 「実は俺、7年前からあなたのことを知っていました」 差し出されたのは、両親の借金に関する書類。そして、咲自身も忘れかけていた冬の夜の記憶だった。 利用するつもりだった結婚相手は、本当に咲を縛る人間なのか。 それとも、初めて彼女を自由にしてくれる人なのか。 これは、誰にも見てもらえなかった2人が、遠回りの果てに互いを選び直す物語。夫婦|親子関係1.4萬字5 755 -
完結第11話
追放母の25億売却
お盆のため、長崎から東京の息子夫婦のペントハウスを訪れた田中春江。 亡き夫に手を合わせ、息子の好物を詰めた重箱を抱え、半日かけて上京した彼女を待っていたのは、温かな家族の食卓ではなかった。 嫁・里奈は春江の手料理を目の前で捨て、安いホテルの予約票を差し出す。さらに息子夫婦は、自分たちが旅行へ行く間、愛犬の世話だけを春江に押しつけようとしていた。 長年、息子のために働き続け、すべてを与えてきた母。だがその日、春江はようやく気づく。 自分は家族として呼ばれたのではない。ただ都合よく使われるために呼ばれただけだった。 その夜、春江は20年以上連絡を取っていなかった“ある人物”に電話をかける。 翌日、息子夫婦が暮らしていた天空の城は、静かに動き始めた――。人生逆転|親不孝|親子関係1.6萬字5 2577 -
完結第9話
喪服の離婚届
父の三回忌法要へ行きたい。 ただそれだけの願いを、姑は「嫁なら婚家を優先しなさい」と切り捨て、夫・誠治は離婚届を投げつけて脅した。 「一歩でも外に出てみろ。その時は終わりだ」 10年間、夫と姑の顔色をうかがい、実家とのつながりさえ遠ざけられてきた由佳。けれど、亡き父を侮辱されたその瞬間、彼女の中で何かが静かに切れた。 由佳は黙って離婚届にサインし、そのまま家を出る。 夫はまだ知らなかった。 自分が見下してきた妻の実家が、実は彼の勤める会社と深く関わっていたことを。そして、隠してきた不正の証拠が、すでに集められていたことを。 翌朝、誠治がいつものように会社のゲートへ社員証をかざした時、扉は開かなかった――。因果応報|夫婦1.4萬字5 1046 -
完結第9話
喪服の隠し子
病弱だった妹・ユキが、結婚からわずか2年で突然この世を去った。 最愛の妹を見送る葬儀の最中、姉のサチは偶然、妹の夫・タクが誰かに電話している声を聞いてしまう。 「子供は大丈夫だ。バレてない」 ユキとタクの間に子供はいない。けれど亡くなる直前、ユキは確かにサチへ何かを伝えようとしていた。 「実家……子供がいる……」 妹が最後に残した謎の言葉。葬儀中に聞いた夫の不審な電話。そして、誰もいないはずの義実家にいた若い女性と幼い子供。 全てがつながった時、サチは初めて知る。 妹はただ病に倒れたのではない。夫とその家族に、何年も残酷な秘密を隠され続けていたのだ。 妹が最後まで伝えようとした真実を暴くため、サチは静かに動き出す。因果応報|人生逆転1.3萬字5 3548