"自由を返した春" 第3話
「私も」
紀子は引きしから子ども用のエプロンを取りした。美優はいつのにかその所を覚えていたらしく、迷わずを伸ばした。
「今、卵焼き作る?」
「作る」
「伝ってくれる?」
「する!」
美優は踏み台を引っ張ってきて、流しの横にった。
卵を割る係は美優だった。
さなで卵を持ち、真剣な顔でそっと割る。黄がし崩れると、「あっ」とさく声をげた。
「だよ」
「本当?」
「本当に」
美優はしだけ背筋を伸ばした。
卵焼きが焼けると、美優は真っ先に切れつまんだ。
「おいしい」
「よかった」
「おばあちゃんの卵焼き、番好き」
紀子はフライパンをからろした。
番。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
昼ご飯をべ、絵本を冊読んだ。美優は紀子の肩に寄りかかり、途から半分眠っていた。
窓から午のが差し込んでいた。
夕方、弓が迎えに来た。
美優は靴を履きながら振り返る。
「また来るね」
「待ってるよ」
扉が閉まると、のは急に静かになった。
紀子はエプロンをし、子に座った。
さっきまでの温かさが、まだ部に残っている気がした。
紀子はしばらく、そのままかなかった。
婚届がテーブルのに置かれたのは、に入ってすぐのことだった。
夕の片付けを終えた紀子が、濡れたを布巾で拭きながらリビングへ戻ると、夫はすでにソファからちがり、卓の端に枚のを置いていた。
広告
いだった。
見慣れているようで、見慣れてはいけない。
そのに並ぶ文字を見た瞬、紀子はすぐにそれが何か分かった。
婚届。
夫はボールペンを指で軽く叩きながら言った。
「弁護士と確認した。あとはここにけばいい」
その声には、特別なはなかった。
連れ添った妻との関係を終わらせる類ではなく、役所にすただの続き類のように扱っていた。
紀子は子に座り、をに取った。
自分の名がかれる欄。
夫の名がかれる欄。
婚姻期。
所。
さな枠のつつが、の活を細かく切り分けていくようだった。
「急がなくていい」
夫は言った。
「でも、内にはしたい」
紀子はから顔をげた。
「内に」
「その方が区切りがいいだろう」
区切り。
その言葉が、妙に軽く聞こえた。
を、末の掃除のように片付けようとしている。
そうっても、紀子は何も言わなかった。
「わかった」
返事はそれだけだった。
翌、紀子はいつも通り図館へ勤した。
返却された本を棚へ戻し、予約本を確認し、利用者に笑顔で応対する。
仕事は、婚届のことを考えずにいられた。
けれど休憩、湯でお茶を淹れていると、同僚の田さんが声をかけてきた。
「紀子さん、ご主、退職されてもうでしたよね」
「ええ」
「毎緒にいられて、いいですね」
広告
湯呑みに落ちるお湯の音が、やけにきく聞こえた。
紀子はし笑った。
「そうですね」
それ以の言葉はてこなかった。
に帰ると、紀子は押し入れの理を始めた。
引っ越しの準備をしなければならない。
奥の方から古い段ボール箱がてきた。
蓋をけると、娘の弓が学の頃に描いた絵が入っていた。族旅の写真もあった。辺で弓が笑い、夫がカメラに向かって器用にピースをしている。
若い頃の紀子と夫が並んで写っている写真もあった。
とも笑っていた。
その写真を見た紀子は、しばらく指を止めた。
あの頃、本当に幸せではなかったとは言えない。
だからこそ、今の現実がひどく静かに胸へ沈んでいく。
紀子は写真を箱に戻し、蓋を閉めた。
夕方、夫が台所に入ってきた。
「晩飯、何かあるか?」
「蔵庫に昨の鍋の残りがあるわ」
「分なんて適当でいいんだろう」
「温め方、分かる?」
「鍋ごとにかければいいんだろう」
夫は蔵庫をけた。
しばらくを眺め、結局何も取らずに閉めた。
「やっぱり、あとでいい」
そう言って、リビングへ戻っていく。
紀子はその背を見ていた。
自由にきたいと言ったが、蔵庫のの鍋つ取りせずに戻っていく。
その姿にりは湧かなかった。
ただ、い疲れだけが残った。
結局、紀子は鍋をにかけた。
沸いてきたら器に盛る。
つ。
いつものように分。
広告
おすすめ作品
-
完結第15話
妊娠中の娘が逃げ帰った夜、大富豪の母が動いた
妊娠8か月の娘・はるかが、顔に傷を負い、母エリコの家へ逃げ帰ってきた。病院では新しい肋骨の骨折に加え、以前の骨折痕も見つかる。夫・匠による暴力は、一度きりではなかった。 匠は巨大企業グループの創業家の一員。だがエリコはその地位にひるまず、娘の安全を確保し、診断書を残す。同時に信頼する会計士へ調査を頼むと、匠一家が関わる財団に巨額の不正な資金移動の疑いが浮かび上がった。 報道を受けても疑惑を否定し続けた匠は、緊急会見の最中、はるかへの傷害容疑で逮捕される。さらにグループの資金問題にも捜査が及び、権力を盾にしてきた一族は追い詰められていく。 母の行動が事態を動かす一方、すべての始まりにあったのは、はるかが自分とお腹の子を守るため、あの家から逃げ出した決断だった。因果応報|人生逆転|嫁姑|絶縁|親子関係|修羅場2.3万字5 1226 -
完結第15話
介護で表彰される嫁――私は認知症に仕立てられた
手首を骨折し、息子夫婦の家へ身を寄せた68歳の文江。嫁・沙耶香は、物忘れが進んだ姑を献身的に介護しているように見せ、日常を動画で配信していた。 だが文江は認知症ではなかった。砂糖と塩を入れ替え、スマートフォンを隠し、同じ質問を繰り返すよう指示する――すべては再生数と広告収入を得るための演出だった。しかも息子も、その事実を知りながら黙認していた。 沙耶香が「献身的な嫁」として表彰される当日、巨大スクリーンに流れたのは感動映像ではなく、撮影前に姑へ演技を命じる未編集動画だった。そして文江は車椅子を使わず、自分の足で壇上へ向かう。 家族に病気も財産も人生も利用された女性が、自らの声と尊厳、そして「撮られない権利」を取り戻していく逆転と再生の物語。因果応報|嫁姑|認知症2.2万字5 779 -
完結第15話
暗証番号0427――元夫が残した24回の送金
離婚の日、朝倉美月は夫の優馬から1枚のカードを渡された。「これで最後だ。暗証番号は0427」――冷たく突き放された美月は、そのカードを3年間使えずにいた。失業し、預金が7300円まで減ったある日、ついにATMへ入れるとエラーが表示され、銀行員から別室へ案内される。そこで知らされたのは、優馬が前年11月9日に亡くなっていたこと。そして口座には、離婚後も毎月27日に9万円ずつ、合計24回の送金が続いていた。残高808万円と古い喫茶店に込められた真意を知った時、美月は、愛情を理由に人生を決められた怒りと向き合いながら、自分自身の答えを選び始める。夫婦|金銭問題|熟年離婚2.0万字5 4586 -
完結第11話
息子に捨てられた母の逆転
「お母さん、今日は少し外へ出ませんか」 息子夫婦に誘われ、70歳のはる子は雪の降る夜、車の後部座席へ乗った。 ところが車は町を離れ、山沿いの介護ホームの前で止まった。 「数日だけ、ここで休んでください」 そう言われた時、トランクから自分のスーツケースが出てきた。 荷物はいつの間にか詰められ、携帯電話は嫁に取り上げられた。 息子は「また来るから」と言い残し、母を301号室へ置いて帰った。 翌日、嫁は面会に来るなり尋ねた。 「通帳はどこですか? 実印は?」 さらに、見覚えのない白い錠剤を「いつもの薬」として渡してきた。 はる子は黙って薬を受け取り、認知症のふりを始めた。 そして翌日の病院で、嫁が電話口で話す声を聞く。 「診断が出たら、家も通帳も動かしやすくなるでしょう」 はる子はその会話を、コートの内側に隠した一本の録音機へ残していた。因果応報|人生逆転|嫁姑|絶縁|親子関係|介護|金銭問題1.7万字5 340 -
完結第12話
母親ではないと言われた日
「あの人は本当の母親ではありません」 小学5年生の授業参観で、姑・光江は教室中に聞こえる声で、継母の佳奈恵を否定した。 理子が5歳で実母を亡くしてから、佳奈恵は6年間、食事や通院、学校生活を支えてきた。それでも夫の俊一は「母さんに悪気はない」と繰り返すだけだった。 翌朝、佳奈恵は学校から一本の電話を受ける。理子の緊急連絡先が佳奈恵から光江へ変更され、その書類には俊一の署名まであった。 さらに姑は、英語教室や私立校への転校まで、本人に黙って決めようとしていた。 家族会議の日、11歳の理子は青いノートを抱えて現れた。表紙には《勝手に決められたこと》――そこには、祖母だけでなく父が娘へ強いてきた「我慢」が、2年分の日付とともに記されていた。因果応報|嫁姑|親子関係1.7万字5 949 -
完結第14話
ATMで呼ばれた「奥様」
離婚の日、夫から一枚のキャッシュカードを渡された美月。 「これで最後だ。暗証番号は0427」 それは2人が婚姻届を出した日の数字だった。夫に捨てられた悔しさから、美月は3年間、一度もカードを使えずにいた。 仕事を失い、預金が7300円になったある日、とうとうATMへカードを入れる。しかし暗証番号を押す前にエラーとなり、銀行員から「奥様、別室へどうぞ」と案内された。 離婚したことを伝えても、銀行員は「承知しております」と答えた。そして別室で差し出されたのは、元夫が預けていた一通の封筒だった。 表には、《0427を覚えていてくれた美月へ》の文字。冷たく自分を切り捨てたはずの夫は、なぜ3年後に美月が銀行へ来ることを待っていたのか。使われなかったカードには、彼女が知らない夫の決断が隠されていた――。夫婦|真相|金銭問題|熟年離婚2.1万字5 6338 -
完結第15話
炎天下に追い出された新人と、5年ぶりに戻った男
正木電気の新人・潮見知夏は、猛暑の中で草むしりを強要され、総務部長・黒岩から執拗な嫌がらせを受けていた。五年ぶりに本社へ戻った滝川武は彼女を救い、腐敗した職場の実態を静かに探り始める。 知夏は書類整理中、解約済みの植栽会社へ毎月五十万円が送金され続けている事実を発見。その直後、地下倉庫へ追放され、ついには炎天下で倒れてしまう。滝川と堀田課長は、黒岩と八谷常務による総額二億三千万円の横領証拠を揃え、臨時役員会を招集する。 そこで滝川が専務執行役員であることが明かされ、帰国した正木社長も黒岩を追及する。職場逆転|因果応報|人生逆転|修羅場2.3万字5 506 -
完結第12話
夜勤明け、鍵を替えられた私の静かな反撃
30時間の夜勤を終えて帰宅した看護師・南を待っていたのは、義母によって交換された玄関の鍵だった。「反省したら土下座しに来なさい」という連絡に、南は「そうですか。では、さようなら」とだけ返信する。 だが、義母と無職の夫は知らなかった。その高級マンションは、南の勤務先が契約する借り上げ社宅であり、家賃も生活費もすべて南の収入で支えられていたのだ。 南は騒がず、締め出しを自白したSNS投稿を保存。社宅の退去手続き、電気・水道・ガスの解約、弁護士への離婚依頼を淡々と進める。月曜日の午後5時、部屋の明かりが消え、管理会社と警察が玄関に現れた。 自分を家政婦のように扱った家族との関係を断ち切り、誇りある仕事と人生を取り戻す女性の、静かで痛快な逆転物語。因果応報|人生逆転|嫁姑|親子関係1.9万字5 4895 -
完結第12話
失踪した妻を道の駅で見つけた――「来ないで」と怯えた理由
「パパ、あの人……ママじゃない?」 半年前に消息を絶った妻が、山あいの道の駅で宝くじを売っていた。 車椅子に座り、別人のように痩せていた。 娘が「ママ!」と駆け寄ると、妻は青ざめて叫んだ。 「来ないで! 私はあなたたちを知らない!」 だが左手には、私が贈った結婚指輪。 そして手の甲には、見慣れた2つのほくろがあった。 「本当は、ずっと会いたかった」 妻は泣きながら娘を抱きしめた。 その直後、震える声で私に告げた。 「私が帰ったら、あなたと杏奈まで消される」 さらに宝くじ箱を差し出し、底を指さした。 そこには、妻が消息を絶った夜の“声”が残されていた――。 (続)因果応報|人生逆転|夫婦|真実|第二の人生|親子関係1.9万字5 1451 -
完結第10話
空っぽの弁当箱
「5万円の居候でしょ?」 そう笑われながら、58歳の私は毎朝5時に起き、息子一家4人分の弁当を3年間作り続けた。 息子の好物、嫁の職場向けの彩り、孫の部活用のおにぎりまで、全部私が考えていた。 食費や学校用品も、足りない時は自分の財布から払った。 それでも家族から返ってくるのは、「家事くらいちゃんとしてよ」という言葉だけ。 迎えた58歳の誕生日、誰も私の誕生日を覚えていなかった。 「今日で、この家の家事係を降ります」 そう告げても、息子は「またすねてる」と笑った。 その夜、私は誰にも何も言わず、自分の荷物だけをまとめた。 翌朝、台所に並んでいた4つの弁当箱は、すべて空っぽだった。 冷蔵庫には、短いメモが一枚だけ残されていた。 そして家族は初めて、私が毎月5万円以外に何をしていたのかを知ることになる。因果応報|人生逆転|嫁姑|第二の人生|親子関係|金銭問題1.4万字5 561