みかん小説
本棚

"最後に座った妻" 第10話

「そう?」

「うん。なんか、自分の顔になったじ」

「自分の顔?」

子は繰り返した。

では、今まではどんな顔をしていたのだろう。

誰かのための顔。

誰かの嫌を伺う顔。

てないための顔。

勝則の言葉を笑って流す顔。

35、そういう顔をねてきたのかもしれない。

子は窓のを見た。

「お父さん、し変わったみたい」

理恵が言った。

子はすぐには答えなかった。

「そう」

事支援サービスも使い始めたって。料理教にもったらしいよ」

「そうなの」

きたいって言ってた。でもまだ送ってないみたい」

子はカップを両で包んだ。

勝則のことを、んでいるわけではなかった。

悪いではなかった。

ただ、見ようとしなかった。

気づこうとしなかった。

自分の言葉が相を傷つけることも、妻が笑いながら削られていることも、見ようとしなかった。

その積みねが、35かけて戻れない距になった。

「会いたい?」

理恵が尋ねた。

子はし考えた。

「今は、会わなくていい」

「うん」

理恵はそれ以聞かなかった。

婚届が受理されたのは、その翌だった。

類が届いた子は何かきなが来るとっていた。解放か、しみか、悔か。胸を揺らす何かが来るだろうと構えていた。

けれど実際には、ただ静かだった。

をかけてゆっくり終わったことが、類のでも終わった。

広告

それだけだった。

子は窓辺のローズマリーにをやった。

この植物は、子が世話をしなければ枯れる。

でも、をやればちゃんと育つ。

与えた分だけ、静かに答えてくれる。

それだけのことが、今の子にはとてもよかった。

65歳の

子は初めて、自分のためのにいた。

朝、目が覚めても、すぐに台所へく必はなかった。勝則の朝を用しなくていい。昼の段取りを考えなくていい。夕飯の献に追われなくていい。

布団ので、しばらく井を見ていてもいい。

起きたいに起きる。

みたいものをむ。

べたいものをべる。

それは、子が忘れていた自由だった。

ある朝、子はノートをいた。

あの、押し入れから取りした古いノートだった。最初のページには、あの1が残っている。

「私は今、幸せなんだろうか。」

子はその文字を見つめた。

の自分のの震えまでした。

ページをめくると、相談員に言われてき始めた記録が並んでいる。勝則に言われた言葉、眠れなかった夜、湯で泣いた。読めば胸が痛む。けれど今は、その痛みを自分のものとして見つめることができた。

子はしいページをいた。

ペンを持ち、ゆっくりいた。

「私は、ここから始める。」

いた瞬、胸の奥にさな温かさが灯った。

広告

30歳のにしまったのことを、最また考えるようになっていた。

いつか自分の名で仕事をしてみたい。

そのは、昔のままの形ではないかもしれない。体力も、も、若い頃とは違う。けれど、もう度何かを始めることはできる。

さな働くこと。

域の講座に通うこと。

文章をくこと。

を育てること。

誰かのためではなく、自分の名で何かを始めること。

子は、もう遅いとはわなかった。

遅すぎることなんてなかった。

その頃、勝則は元ので1暮らしを続けていた。

事支援サービスを使い、しずつ活のやり方を覚えていた。料理教で習った噌汁はまだかったが、焦げた卵を捨てることは減った。ゴミのも、台所の壁に貼ったカレンダーで確認するようになった。

だが、どれだけ活をえても、失ったものは戻らなかった。

勝則が失ったのは、事の担いではなかった。

自分のを誰よりもくで支え、肯定し、見えないところで守ってくれていた唯の理解者だった。

失ってから「謝していた」と叫んでも、届かなければただの独り言になる。

勝則はそのことを、遅すぎる形でった。

子は窓辺に座り、ローズマリーの葉にそっと触れた。

葉の先から、かすかにりがった。

35というは戻らない。

でも、残りのまで誰かに渡す必はない。

彼女はカップを持ち、窓のを見た。

が、狭い部いっぱいに差し込んでいる。

子は静かに笑った。

それは誰かの嫌を取るための笑顔ではなかった。

てないための笑顔でもなかった。

自分の内側から、ゆっくり戻ってきた笑顔だった。

65歳の

子は初めて、自分のの席に座った。

もう最ではない。

誰かのでもない。

自分のために、自分の所へ座ったのだった。

― 完 ―

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: