"消えた五輪候補" 第1話
昭593、京都区。
子、21歳。
彼女はその朝も、いつもと同じように午5に目を覚ました。狭いアパートの2階、6畳の部には、まだ夜けのたい空気が残っていた。い布団ので目をけると、隣の部から父の咳払いが聞こえた。
子はゆっくりと半を起こした。
体のあちこちがかった。肩も腰も、の練習の疲労でこわばっていた。けれど、彼女は声をさなかった。父を起こさないように布団をたたみ、音をてないようさな洗面所へ向かった。
たいで顔を洗うと、鏡のの自分を見つめた。
頬はしこけていた。目のには疲れがにじんでいる。それでも瞳だけはかった。
あと3。
あと3で、すべてが決まる。
子はのでそうつぶやいた。
彼女は体操の国代表候補だった。ロサンゼルスオリンピックの最終選考まで、残り3。21歳の子にとって、それはただの試ではなかった。幼い頃から積みねてきた努力、父の期待、貧しいを変えたいという願い。そのすべてが、数の演技にかかっていた。
は決して裕福ではなかった。
父の正司は58歳。町で働く労働者だった。母は子が10歳のに病気でくなり、それ以来、父と兄と子の3で暮らしてきた。
兄の健は7歳で、28歳だった。を卒業してから仕事を転々とし、今は無職の状態が続いていた。
広告
々、建設現の雇いにることはあったが、定した収入はなかった。
アパートの賃は3万5000円。正司のは12万円ほどだった。
そのから、子の練習費、征費、ユニフォーム代を捻するのは簡単なことではなかった。正司は娘のために、自分の昼を削った。タバコをやめた。休の晩酌もやめた。
すべては、子ののためだった。
正司は子が体操を始めたから、娘の成功だけを信じてきてきた。
「子がオリンピックにれば、このも変わる」
町の仲たちに、正司は何度もそう語った。
「テレビにて、スポンサーがつけば、おも楽になれる」
同僚たちは笑いながらも、羨ましそうに言った。
「の娘はすごいらしいな」
その言葉は、正司にとって何よりの誇りだった。
妻を失い、息子は仕事が続かない。自分は、町の労働者のままかもしれない。けれど娘だけは違う。子だけは、この貧しいからの当たる所へける。
正司はそう信じていた。
子が体操を始めたのは、学3のだった。体育の授業でび箱を軽々とび越えた姿を見た教師が、正司に告げた。
「この子には才能があります。体操教に通わせてみてはどうでしょう」
正司は迷わなかった。
謝は5000円。当の正司にとって、決してくない額だった。
広告
それでも夜勤を増やし、娘を体操教へ通わせた。
子は父の期待に応えるように、めきめきと達していった。
学6で区の会に優勝し、学では都会で3位。3のには全国会で3位に入った。そして学学と同に、国代表候補に選ばれた。
子は奨学で学に通いながら、毎朝5から夜8まで練習を続けていた。
だが、その輝きはのにも落としていた。
兄の健は、妹の成功を素直にべなかった。
子どもの頃から、勉も運も得ではなかった。仕事も続きせず、父からはため息をつかれることが増えていた。そんな健にとって、子のはまぶしすぎた。
父がをけば、子の話ばかりだった。
「子はすごい」
「子ならやれる」
「子がこのを変えてくれる」
健は、茶碗を持つを止めながら、何度もそうした言葉を聞いてきた。
父さんは、俺のことなんか見ていない。
いつも子、子、子だ。
そのいは、健のでしずつ濁っていった。
昭58の、健はを辞めた。理由は司との喧嘩だった。
「おみたいな途半端なやつは、どこにっても使えない」
そう言われた健は、具を投げつけ、をびした。
それ以来、でぶらぶら過ごすが増えた。正司は何度も仕事を探すよう促した。
「健、おももう28だぞ。
いつまでもふらふらしていないで、ちゃんとした仕事を見つけろ」
広告
おすすめ作品
-
完結第15話
姉の身代わりで嫁いだら、冷酷当主の本命でした
家族に冷遇され、姉の身代わりとして“冷酷な当主”のもとへ嫁がされた澄乃。しかし初対面で、偽りの花嫁だと見抜かれてしまう。 追い返される覚悟をした澄乃に、静は「お前で構わない」と告げる。さらに帳簿を読む彼女の才能と、恐れながらも嘘をつかなかった誠実さを認めていく。歴史|昭和|ミステリー|夫婦|第二の人生2.0万字5 461 -
完結第10話
13年前に消えた娘が、元隣人のSNSにいた
2009年、自宅から忽然と消えた四歳の娘・くるみ。母のえみは、娘の部屋を十三年間そのまま残し、帰りを待ち続けていた。 失踪から十三年後、元隣人のSNSに十七歳の少女が写る。成長した娘に似た顔、同じ三日月形のあざ、そして少女の名前も「くるみ」だった。ミステリー|夫婦|真実|真相|親子関係1.6万字5 185 -
完結第16話
雪の空港で消えた四人と第七格納庫
1989年のクリスマスイブ、北海道の空港から四人の客室乗務員が姿を消した。車には荷物と靴だけが残され、手掛かりのないまま35年が過ぎる。 2024年、解体中の旧格納庫で隠し部屋が発見され、事件は再び動き始めた。浮かび上がったのは、空港内部を熟知し、彼女たちを密かに監視していた元整備士だった。ミステリー|真実|真相1.9万字5 266 -
完結第14話
七年後、屋上で見つかった妻の秘密
1993年、鹿児島。自治会の帳簿を整理していた主婦・ミキは、過去の火災復旧費に不自然な水増しを見つける。調査を始めた直後、彼女は遺書とバッグだけを残して姿を消した。 投身とされた事件から七年後、マンション屋上の封鎖された旧貯水槽から、ミキと一致する人骨が発見される。ミステリー|真相|行方不明2.1万字5 264 -
完結第13話
成人式に消えた母と十三着目の振袖
2014年の成人式当日、貸衣装店から母・奈津子が消えた。店の960万円もなくなり、共に姿を消したカメラマンとの逃避行が疑われる。娘の紗季に残されたのは、「今日は署名をしないで」という謎のメモだけだった。 10年後、閉店する店の倉庫から、記録にない「13着目の振袖」が見つかる。その裾には、若い女性たちの名義で作られた高額ローン契約書と、母が隠した証拠が縫い込まれていた。ミステリー|真実|行方不明2.3万字5 319 -
完結第18話
昭和38年、つなぐなと言われた救急電話
昭和38年、山間の電話交換所で働く澄子は、診療所から県立病院への緊急電話を受ける。重傷の17歳を救うための連絡だったが、主任は「その電話だけは絶対につなぐな」と命じた。 少年が亡くなった後、澄子の判断ミスとして処理されようとする。しかし記録を調べると、救急回線が止められていた時間にも、工事会社と本社、町役場の間では電話がつながっていた。時代|歴史|昭和|ミステリー2.3万字5 301 -
完結第10話
31年間、母が捨てなかったマットレスの秘密
31年間、両親が頑なに使い続けてきた古いマットレス。中央は大きく沈み、父の腰痛も悪化していたが、母はなぜか買い替えを拒み続けていた。 息子のデイヴィッドは、両親を旅行へ連れ出した隙に新しいものと交換しようとする。ところが搬出業者から、「お母様を寝室へ入れず、まず一人で確認してください」と切迫した電話が入る。 マットレスの下から現れたのは、古い手紙や小さな靴、写真、ぬいぐるみ。そこには両親が31年間、息子にさえ存在を明かさなかった幼い娘・グレースの記憶が封じられていた。 娘を失った悲しみから逃げるため、名前すら口にしなくなった父。そして誰にも見つからない場所で、毎年娘へ手紙を書き続けた母。古い寝台が取り払われた日、沈黙の下に閉じ込められていた家族の時間が、ようやく光の中へ戻り始める。ミステリー|真実|真相|親子関係1.5万字5 780 -
完結第15話
午前2時17分、亡き妻が病室を訪れる
午前2時17分。夜勤看護師の由衣は、面会時間を過ぎた病棟で黒いコートの女性を目撃する。 女性が立ち止まったのは、家族との連絡を拒み続ける71歳の患者・久世修一の病室前。だが受付記録にも防犯カメラにも姿はなく、乗り込んだエレベーターからも忽然と消えていた。 修一は女性の特徴を聞くと顔色を変え、10年間疎遠だった娘へ連絡してほしいと頼む。やがて判明したのは、黒いコートが10年前に亡くなった妻・美佐子のものと同じだったこと。そして彼女が息を引き取った時刻も、午前2時17分だった。 妻の最期に間に合わなかった父と、その父を許せなかった娘。再び同じ時刻にエレベーターが開く夜、10年間止まっていた家族の時間が静かに動き始める。ミステリー|夫婦|真実|真相1.4万字5 174