"スズメバチ事故の遺言" 第2話
松吉ほどの古株なら、なおさら用していたはずだった。
しかし、松吉のそばにも、ポケットのにも、そうした薬らしいものは見当たらなかった。
50く蜂を飼ってきた男が、防護網も薬も持たずに蜂へ来るものだろうか。
その疑問が、越のをかすめた。
けれど、彼はにさなかった。
町の々は、松吉が蜂と話ができるほど蜂に慣れただとっていた。、防護網なしで作業する姿を見たことがある者もいた。薬も、寄りのことだから置き忘れたのかもしれない。
何より、医師がはっきりと蜂による事故と見てていた。
争った跡もなかった。
蜂には松吉以のの気配もなかった。
警察は事件として扱わなかった。
松吉のは、スズメバチに刺された幸な事故として処理された。
そののうちに、らせは町へ広がった。
駅から続く商では、百も物も文具もさな堂も、みな同じ話をしていた。
「松吉さんが蜂にやられたって」
「あの松吉さんがか」
誰もが信じられない顔をした。
蜂をり尽くした松吉が、その蜂に命を奪われる。
それはあまりにも皮肉で、あまりにも寂しい来事だった。
葬儀は3に営まれた。
商の半分ほどのがシャッターをろし、町からが寺へ集まった。松吉には寄りがほとんどなかった。
広告
妻は何もに病でくなり、子どもは1娘の幸子だけだった。
幸子は若い頃に桐原をて、京で所帯を持っていた。
葬儀の、幸子は久しぶりに喪姿で町へ帰ってきた。40歳をし過ぎたばかりの彼女は、父の遺のでい、黙ってをげていた。
その表には、しみだけでなく、悔のがあった。
もっと帰ってくればよかった。
もっと話をしておけばよかった。
遺のの松吉は、いつものようにし照れた笑みを浮かべていた。
幸子はその笑顔を見つめながら、何度も胸ので同じ言葉を繰り返した。
葬儀が終わり、葬を済ませると、幸子は父の遺骨を抱いてへ戻った。
のには、松吉の暮らしの跡がそのまま残っていた。使い込まれた湯み茶碗、読みかけのまま伏せられた聞、柱に刻まれた幸子の幼い頃の背比べの傷。
の裏にある作業には、蜂蜜作りの具式がきちんと片付けられたまま置かれていた。蜜を搾る分、蜜をこす布、巣箱を燻すための燻煙器、蜜蝋を煮るきな鍋。
それらのつつに、父のの跡が染み込んでいた。
幸子には、それを片付ける気力がなかった。
通りの法を終えると、彼女は再び京へ戻った。巣箱は松吉の養蜂仲が引き取ってくれることになり、と作業はしばらくそのままにしておくことにした。
広告
いつか落ち着いたら、ゆっくり理しよう。
そうっていた。
こうして、松吉のは表向きにはすっかり終わった来事になった。
蜂に刺されてくなった気の毒な老。
町の々の記憶ので、松吉は「蜂蜜の松吉さん」として優しく語り継がれていった。
しかし、8。
2005の、桐原の町はしずつ姿を変えていた。
を越えて隣のへ抜けるが拡張されることになり、川沿いの古い々が取り壊され、しい団の建設も始まっていた。商でも、跡継ぎのいないが1つ、また1つとシャッターをろしていた。
松吉のと作業も、8のほとんどつかずのまま残されていた。幸子は京で暮らしながら、折桐原へ戻り、のを通し、庭のを抜いてまた京へ帰る。そんなことを繰り返していた。
父の暮らしの跡を片付けることが、どうしてもできなかったのだ。
だが拡張事の区域が、松吉のの裏にまで及ぶことになった。は残せたが、作業は取り壊さなければならなかった。
4の終わり。
幸子は何か桐原に滞し、のを片付けることにした。
原は遅いの盛りだった。々には淡い若葉が残り、田んぼにはが張られ、畦にはれんげのが咲いていた。夕方になると、どこからともなく蛙の声が聞こえた。
作業の片付けは、いのほか骨が折れた。
50分の養蜂具が、所狭しと詰め込まれていた。
広告
おすすめ作品
-
完結第23話
白線の先の女たち
昭和三十九年、女子競輪が終わりを迎えようとしていた。三十四歳の佐伯久美子は、最後の地元決勝で優勝する。しかし彼女が真っ先に求めたのは、花束でも拍手でもなく、次の出走表だった。返ってきたのは、もう走る場所はないという答え。そんな久美子の前で、十九歳の新人・夏子は「私は来年も勝ちたい」と訴える。仕事、家族、怪我、そして失われた競走の舞台。走ることを諦められない女たちは、それぞれの暮らしを背負いながら、新しい一歩を探し始める。時代|歴史|昭和|ミステリー3.0万字5 64 -
完結第15話
姉の身代わりで嫁いだら、冷酷当主の本命でした
家族に冷遇され、姉の身代わりとして“冷酷な当主”のもとへ嫁がされた澄乃。しかし初対面で、偽りの花嫁だと見抜かれてしまう。 追い返される覚悟をした澄乃に、静は「お前で構わない」と告げる。さらに帳簿を読む彼女の才能と、恐れながらも嘘をつかなかった誠実さを認めていく。歴史|昭和|ミステリー|夫婦|第二の人生2.0万字5 514 -
完結第10話
13年前に消えた娘が、元隣人のSNSにいた
2009年、自宅から忽然と消えた四歳の娘・くるみ。母のえみは、娘の部屋を十三年間そのまま残し、帰りを待ち続けていた。 失踪から十三年後、元隣人のSNSに十七歳の少女が写る。成長した娘に似た顔、同じ三日月形のあざ、そして少女の名前も「くるみ」だった。ミステリー|夫婦|真実|真相|親子関係1.6万字5 187 -
完結第16話
雪の空港で消えた四人と第七格納庫
1989年のクリスマスイブ、北海道の空港から四人の客室乗務員が姿を消した。車には荷物と靴だけが残され、手掛かりのないまま35年が過ぎる。 2024年、解体中の旧格納庫で隠し部屋が発見され、事件は再び動き始めた。浮かび上がったのは、空港内部を熟知し、彼女たちを密かに監視していた元整備士だった。ミステリー|真実|真相1.9万字5 726 -
完結第14話
七年後、屋上で見つかった妻の秘密
1993年、鹿児島。自治会の帳簿を整理していた主婦・ミキは、過去の火災復旧費に不自然な水増しを見つける。調査を始めた直後、彼女は遺書とバッグだけを残して姿を消した。 投身とされた事件から七年後、マンション屋上の封鎖された旧貯水槽から、ミキと一致する人骨が発見される。ミステリー|真相|行方不明2.1万字5 319 -
完結第13話
成人式に消えた母と十三着目の振袖
2014年の成人式当日、貸衣装店から母・奈津子が消えた。店の960万円もなくなり、共に姿を消したカメラマンとの逃避行が疑われる。娘の紗季に残されたのは、「今日は署名をしないで」という謎のメモだけだった。 10年後、閉店する店の倉庫から、記録にない「13着目の振袖」が見つかる。その裾には、若い女性たちの名義で作られた高額ローン契約書と、母が隠した証拠が縫い込まれていた。ミステリー|真実|行方不明2.3万字5 321 -
完結第18話
昭和38年、つなぐなと言われた救急電話
昭和38年、山間の電話交換所で働く澄子は、診療所から県立病院への緊急電話を受ける。重傷の17歳を救うための連絡だったが、主任は「その電話だけは絶対につなぐな」と命じた。 少年が亡くなった後、澄子の判断ミスとして処理されようとする。しかし記録を調べると、救急回線が止められていた時間にも、工事会社と本社、町役場の間では電話がつながっていた。時代|歴史|昭和|ミステリー2.3万字5 344 -
完結第10話
31年間、母が捨てなかったマットレスの秘密
31年間、両親が頑なに使い続けてきた古いマットレス。中央は大きく沈み、父の腰痛も悪化していたが、母はなぜか買い替えを拒み続けていた。 息子のデイヴィッドは、両親を旅行へ連れ出した隙に新しいものと交換しようとする。ところが搬出業者から、「お母様を寝室へ入れず、まず一人で確認してください」と切迫した電話が入る。 マットレスの下から現れたのは、古い手紙や小さな靴、写真、ぬいぐるみ。そこには両親が31年間、息子にさえ存在を明かさなかった幼い娘・グレースの記憶が封じられていた。 娘を失った悲しみから逃げるため、名前すら口にしなくなった父。そして誰にも見つからない場所で、毎年娘へ手紙を書き続けた母。古い寝台が取り払われた日、沈黙の下に閉じ込められていた家族の時間が、ようやく光の中へ戻り始める。ミステリー|真実|真相|親子関係1.5万字5 781 -
完結第15話
午前2時17分、亡き妻が病室を訪れる
午前2時17分。夜勤看護師の由衣は、面会時間を過ぎた病棟で黒いコートの女性を目撃する。 女性が立ち止まったのは、家族との連絡を拒み続ける71歳の患者・久世修一の病室前。だが受付記録にも防犯カメラにも姿はなく、乗り込んだエレベーターからも忽然と消えていた。 修一は女性の特徴を聞くと顔色を変え、10年間疎遠だった娘へ連絡してほしいと頼む。やがて判明したのは、黒いコートが10年前に亡くなった妻・美佐子のものと同じだったこと。そして彼女が息を引き取った時刻も、午前2時17分だった。 妻の最期に間に合わなかった父と、その父を許せなかった娘。再び同じ時刻にエレベーターが開く夜、10年間止まっていた家族の時間が静かに動き始める。ミステリー|夫婦|真実|真相1.4万字5 174 -
完結第10話
昭和51年、閉山した炭鉱町から消えた父
昭和51年、炭鉱が閉山した3日後、保安係だった父・修一が姿を消した。玄関には泥のついた長靴と作業帽が残され、母は「探さなくていい」と口を閉ざす。だが娘が父の作業着から見つけた紙片には、閉鎖された坑道の名と、謎の時刻が記されていた。 調べるほどに浮かび上がる、改ざんされた保安記録、帳簿から消された作業員、そして会社が隠そうとする閉山直前の事故。やがて坑道に残された録音から、父が誰かを救おうとしていた事実が明らかになる。しかし数十年後に届いた父の名札には、さらに不可解な言葉が刻まれていた。 「北の出口から出た。家へは戻れない」 父はなぜ、生きて坑内を出ながら家族のもとへ帰らなかったのか――。時代|歴史|昭和|ミステリー|真相1.5万字5 291