"藤蔵は二度生きた" 第1話
1815、武蔵国摩郡野に、田勝郎という男の子がまれた。現の京都王子野にあたるそのは、田畑と雑林に囲まれ、々が農作業や籠作りをしながら暮らす静かなだった。
勝郎もまた、どこにでもいるの子供として育った。父母の仕事を伝い、兄や姉と遊び、が暮れればへ戻るという毎を送っていたため、にく戸や京にまで名がられるようになるとは、族の誰も像していなかった。
ある11の、8歳になっていた勝郎は、兄の乙次郎と姉のと緒に田んぼへていた。刈り入れを終えたの田にはい稲の株が並び、たいが通り抜けるたび、乾いた藁が元でかすかな音をてていた。
3は畦をったり、落ちている稲穂を拾ったりしながら遊んでいた。やがて疲れた乙次郎とが田の端に腰をろすと、しれた所にっていた勝郎が、何かを考えるように空を見げた。
しばらく黙っていた勝郎は、兄と姉の顔を順番に見た。
「兄ちゃんと姉ちゃんは、まれるにどこにいたか覚えている?」
あまりにも突然の質問だったため、乙次郎は目を丸くした。も拾った稲穂をにしたまま、何を聞かれたのか分からないという顔で弟を見つめ返した。
「まれるって、何のことだよ」
広告
乙次郎が笑いながら聞き返すと、勝郎は冗談を言っている様子もなく、真剣な表で2のへ歩み寄った。
「ここにまれてくるのことだよ。兄ちゃんは覚えていないの?」
「そんなこと、覚えているわけないだろう」
乙次郎が肩をすくめると、は弟の顔をのぞき込んだ。勝郎の目には、子供がいつきで話しているとはえないほどの迷いが浮かんでいた。
「じゃあ、勝郎は覚えているの?」
がそう尋ねた瞬、勝郎はを閉ざした。言うべきかどうか悩むように元のを見つめ、履の先でさなをかしていた。
が返事を待っていると、勝郎は辺りに誰もいないことを確かめてから、声を潜めた。
「俺はにもきていたんだ」
乙次郎の笑顔が消えた。も弟の言葉を聞き逃すまいと、自然にを乗りした。
「は、ここじゃないにいた。の向こうの程久保にんでいたんだ」
勝郎はくのを指さした。その向こうには、歩けば30分ほどで着く程久保があったが、勝郎が1で訪れたことはなかった。
「父親は久兵といって、母親はおしづといった。俺の名は勝郎じゃなかった」
たいが田んぼを通り過ぎ、3の着物の裾を揺らした。乙次郎もも、弟の次の言葉を待った。
「藤蔵っていう名だったんだ」
はわず乙次郎と顔を見わせた。
広告
程久保に藤蔵という子供がいたという話など、2は度も聞いたことがなかった。
「誰から聞いたの?」
が尋ねると、勝郎は首を横に振った。
「誰にも聞いていない。俺が藤蔵だったからっているんだ」
それだけ言うと、勝郎は急にそうな顔になった。姉の袖をつかみ、では決して話さないでほしいと訴えた。
「父ちゃんにも母ちゃんにも言わないで。変なことを言う子だとわれるから」
は戸惑いながらも頷いた。乙次郎も、そのでは誰にも言わないと約束した。
3は何事もなかったように遊びを再したが、のには弟の言葉がいつまでも残っていた。夕暮れがづき、田の向こうからへ戻る々の声が聞こえてきても、勝郎がにした「藤蔵」という名だけは消えなかった。
そのを境に、勝郎が隠していたもう1つのは、しずつ族のへ姿を現していくことになる。
勝郎の秘密を聞いたも、はすぐには両親へ話さなかった。弟がひどく嫌がっていたため、約束を破ってはいけないとい、胸のにしまっておくことにした。
ところが、兄弟姉妹が毎仲良く過ごせるわけではなかった。遊び具の取りいや、の伝いを誰がするかというさなことで、勝郎とが言い争うもあった。
そんな、腹をてたが弟の顔を見て言った。
「あのことを父ちゃんたちに話すよ」
その言葉を聞くたび、勝郎は急に黙り込んだ。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
私の名前を消した夫
東京国際リハビリテーション医療センターの着工記念式典当日、神崎しおりは会場入口で足を止められた。 招待者名簿から、彼女の名前だけが消されていたのだ。 3年間かけて基幹設計を作り、祖父から受け継いだ絵画を売って5億円まで投じたプロジェクト。その晴れ舞台に立っていたのは、夫・尚弥と、しおりのVIPバッジを胸につけた若い女性だった。 「肩書きを貸すだけだ」 そう言い放つ夫を前に、しおりは静かに会場を去る。 しかしその直後、彼女が一本の電話をかけた瞬間、巨大プロジェクトは音を立てて崩れ始める。 奪われた名前、盗まれた設計、消えた5億円。 すべてを踏みにじられた女が、自分の名で立ち上がる逆転劇――。人生逆転|夫婦|不倫1.7万字5 65 -
完結第11話
質屋で知った夫の嘘
離婚の日、元夫・慎介は私の手に結婚指輪を握らせ、冷たく言い放った。 「売って生活しろ」 その一言を憎みながら、私は3年間、貧しい暮らしの中でも指輪だけは手放せずにいた。けれど貯金が尽き、ついに古い質屋へ持ち込んだ日、店主は指輪の内側を見て顔色を変える。 「奥様、お待ちしておりました」 そこには、私の知らない小さな印が刻まれていた。 なぜ元夫は、離婚前にこの質屋を訪れていたのか。なぜ私を突き放しながら、指輪だけを持たせたのか。 憎しみ続けた別れの言葉の裏に、3年間隠されていた真実が少しずつ明らかになっていく――。夫婦|真実|第二の人生|金銭問題1.7万字5 596 -
完結第13話
5人目だけが若かった
1999年夏、岐阜県の山あいにある青川村で、豪雨による土砂崩れが起きた。 崩れた山肌から現れたのは、黒い縄でつながれた5体の遺骨。村人たちは、それを6年前に行われた古い合葬の名残だと説明する。 しかし鑑定の結果、5体のうち1体だけが明らかに若すぎることが判明した。 老人5人が眠っているはずの棺に、なぜ24歳前後の若い女性が紛れ込んでいたのか。そして、本来そこにいるはずだった5人目の老人はどこへ消えたのか。 口元に押し込まれていた黄色い布、祠の裏道に残された車の痕跡、6年前の夜に聞こえた女の声。 迷信と沈黙に守られてきた山村の秘密が、雨によって少しずつ地上へ押し出されていく――。ミステリー|真実|真相1.9万字5 458 -
完結第10話
鍵をかけられた妊婦
妊娠七か月の美緒は、漏水工事のため、夫の実家で三週間だけ暮らすことになった。 最初は親切だった義母。けれど数日後から、漬物店の手伝いは少しずつ増え、母子手帳や保険証まで勝手に管理されるようになる。 医師から無理な立ち仕事を避けるよう言われても、義母は「妊婦は病人じゃない」と聞き入れない。夫に訴えても返ってきたのは、「母さんは心配しているだけ」という言葉だった。 そしてある朝、美緒が家を出ようとすると、靴は消え、玄関には外から鍵が掛けられていた。 閉じ込められた家の中で、突然お腹に強い張りが走る。 その時、美緒はようやく気づく。守らなければならないのは、家族の顔色ではなく、自分とお腹の子の命だった――。嫁姑|真実|親子関係1.6万字5 1643 -
完結第10話
ヤクザが凍りついた夜
東京下町の路地裏にある小さな居酒屋「はっちゃん食堂」。 その夜、店の一番奥には、いつものように静かに酒を飲む78歳の老人・高原誠一が座っていた。妻を亡くして以来、季節の変わり目にだけ現れる、物腰の柔らかな常連客。誰もが彼を、ただの寡黙な年金生活者だと思っていた。 しかし午後11時半、三人の強面の男たちが店へ押し入り、店主や常連客を威圧し始める。やがて標的にされたのは、何も言い返さない誠一だった。 酒をこぼされ、肩をつかまれ、拳を振り上げられても、誠一は怒鳴らなかった。 だが次の瞬間、店内の空気が凍りつく。 78歳の老人が見せた、あまりにも静かで正確な動き。誰も知らなかった彼の過去が、赤提灯の下で少しずつ浮かび上がっていく――。人生逆転|怒り|修羅場1.5万字5 186 -
完結第13話
「ただの用務員でしょ?」卒業式で笑われた72歳――アルバムを開いた生徒たちが泣き、校長は壇上を降りた
私立桜ヶ丘高校で30年間働いてきた用務員・佐藤隆一、72歳。退職の日となる卒業式の朝、PTA会長は卒業アルバムに大きく掲載された佐藤の写真を見て、「先生でもないのに、ここまで載るんですか?」と鼻で笑った。佐藤は何も言い返さず、いつも通り雨で汚れた体育館入口を掃除し続ける。ところが式直前、卒業生180人がアルバムを開き始めると、会場の空気が変わった。佐藤の特集ページを見た一人の男子生徒が、突然涙をこぼしたのだ。「俺、この人がいなかったら、今日ここにいません」。そしてその言葉をきっかけに、30年間誰にも語られなかった佐藤と生徒たちの記憶が、次々と明らかになっていく――。人生逆転1.7万字5 318 -
完結第10話
20年後、坊ちゃんは帰ってきた
財閥家の御曹司・優人は、母を亡くした直後、新しく屋敷に入ってきた女によって濡れ衣を着せられ、わずか8歳でアメリカ留学へ追いやられる。 実の父にまで見捨てられた優人のそばに残ったのは、亡き母から「この子を守って」と託された家政婦・白石千鶴子だけだった。 行き先も学校も用意されないまま、異国の地へ捨てられた二人。千鶴子は皿洗いをしながら優人を育て、優人もまた、悔しさを胸に必死で学び続ける。 そして11年後、母が残した一冊の日記から、隠されていた資産と最後の願いが見つかる。 それからさらに時が流れ、20年後。 日本の大和グループが経営危機に陥った時、正体不明の投資家「黒札」に救いを求めることになる。 しかし彼らはまだ知らなかった。 その「黒札」こそ、かつて屋敷から追い出した少年だったことを――。人生逆転|裡切られた|真相|親子関係1.4万字5 846 -
完結第7話
山奥に捨てられた下半身不随の妻妻は立ち上がる
建築会社の社長・鈴木佳奈は、工事現場から転落し、体を動かせないまま入院生活を送っていた。献身的に支える夫・健二は、周囲から理想の夫と称賛されている。だが夜になると、彼は佳奈の実印を持ち出し、署名を偽造し、愛人と会社や不動産を奪う計画を進めていた。さらに佳奈は、真夏の山中へ自分を置き去りにする相談まで耳にする。誰にも意思を伝えられないと思われていた彼女は、密かに回復しながら証拠を集め始める。夫婦22年の信頼を利用した計画の奥には、最初の転落事故へつながる秘密も隠されていた。人生逆転|夫婦1.1万字5 233 -
完結第11話
7人の妊娠と密封された患者服
2011年、富山県の山あいにある黒部女子刑務所で、信じがたい事件が発覚した。 男性との接触が厳しく制限された隔離区画で、7人の女性受刑者がほぼ同時期に妊娠していたのだ。 監視カメラはなぜか壁だけを映し、薬の管理記録には説明のつかない空白が残されていた。だが、疑惑の中心にいた医務課長・九条匠は完璧な記録と証言に守られ、事件は証拠不十分のまま闇へ葬られていく。 声を奪われた7人の女性たち。真相を追いながら左遷された刑事。社会的成功を手にし、15年間“勝者”として生き続けた男。 そして2026年、死を目前にした元警備課長が残した一つの鉄箱によって、封じられていた過去が再び動き出す。 永久に開かれないはずだった患者服の中に、15年間眠り続けていた小さな証拠とは――。ミステリー|真実1.6万字5 382 -
完結第12話
花嫁が僕を犯人にした朝
結婚式まで、あと1時間20分。 ホテルの支度室で、花嫁・白石奈緒は切り裂かれたウェディングドレスを前に、衣装修復担当の朝倉湊を指さした。 「ドレスを切ったのは、この人です」 しかし湊には分かっていた。昨夜、保管室で彼が見た時、ドレスはすでに切られていた。そして奈緒は、震える声で「明日の式を止めてほしい」と頼んでいたのだ。 なぜ花嫁は、自分を助けようとした男を犯人に仕立てたのか。 やがて、ドレスの内側に縫い込まれていたはずの封筒、消えた書類、三浦家の融資計画、そして花嫁本人の不可解な沈黙が、結婚式の裏に隠された別の真実を浮かび上がらせていく。 切られたのは、ドレスだけではなかった。 守るべき秘密と、押しつけられた罪。その境目に立たされた一人の修復師が、自分の人生を取り戻していく物語。人生逆転|真実|修羅場1.7万字5 142