"恩に沈む猛獣舎" 第2話
B6判の古い帳で、表は油と汚れで黒ずんでいる。
餌の量、糞の状態、体調、歩き方。
郡は毎、細かな変化までそこへき込んでいた。
帳はかれていた。
2002917。
付だけがかれている。
そのは、真っだった。
椎名はちがった。
の奥には、飼育員用通へ続くい鉄扉がある。そこを抜ければ、虎や豹の寝に面した作業通へる。
椎名は扉の取っにをかけた。
かない。
「……え?」
もう1度引いた。
かなかった。
掛けがかかっている。
それも、内側から。
猛獣舎の内扉には、側と内側の両方に掛けがあった。作業のがから誤って閉じ込められないように、内側にも施錠できる構造になっている。
つまり内側から掛けがかかっているなら、本来はにがいる。
「郡さん?」
椎名はさな覗き窓へ顔を寄せた。
通は暗かった。
奥の窓からのが細く差し込んでいる。
誰もいない。
「郡さん、おってですか?」
扉を叩いた。
属音だけが通へ響き、そのまま消えた。
次の瞬。
扉の向こうで、きなものがじろぎした。
を擦る音。
続いて、くい息遣い。
ベンガルトラのタイガだった。
14歳になる雄。
半ほどでこの物園へやって来て、ずっと郡に世話をされてきた。
幼い頃には、若い郡が子虎を腕に抱いて撮った写真も残っていた。
広告
椎名の胸が激しく鳴った。
もし。
に浮かんだ像を、すぐに打ち消す。
郡に限って、そんな事故はない。
虎を寝へ移し、格子が完全にりたのを2回確認してから作業へ入る。それは郡自が若い飼育員たちへ何度も何度も叩き込んだ順だった。
「誰のせいにもせんように、自分で確認しろ」
いつも、そう言っていた。
椎名はもう1度、内扉を見た。
から鍵がかかっている。
けれど、には誰もいない。
椎名は駆けした。
をびし、事務棟へ向かう。
りながらに浮かんでいたのは、虎ではなかった。
あの靴だった。
きれいに揃えられた黒い靴。
どうして、あんなふうに置いたのか。
事務棟へ転がり込むように入り、椎名は叫んだ。
「園! 郡さんが……郡さんがおらんのです!」
奥の机で類を見ていた園の孝が、老鏡をずらして顔をげた。
76歳。
この物園の実質な主であり、親会社である運送会社の創業につながる物でもあった。
「どこにおらんのや」
「猛獣舎です。靴だけ置いてあって、内扉がから……」
そこまで言った、椎名は言葉を止めた。
の顔から、すっとが消えたからだった。
それは椎名が像していた「驚いた顔」ではなかった。
もっと別の何か。
老の皮膚が瞬でくなったような、異様な顔だった。
は机へをついた。
広告
そのが震えていた。
「虎や」
「え?」
「タイガや。郡が油断したんや」
「でも……」
「わしは何度も言うたんや。寄りが1で猛獣舎へ入るなって」
は子へ崩れるように腰をろした。
椎名は、そのからけなかった。
まだ誰も虎を調べていない。
まだ誰も、郡がどうなったのか見ていない。
なのに園は、もう答えをっているような言い方をした。
午820分過ぎ。
丘のにあるさな駐所で、1本の話が鳴った。
その話を取った若い巡査が、20以にわたってこの事件を追い続けることになる。
彼の名は、沖野修。
この、26歳だった。
話が鳴った、沖野修は駐所の交差点から戻ったばかりだった。
朝は通学する子供たちを見守り、昼になれば自転で町内を回り、夕方には団の集会所で老たちの話を聞く。それが赴任2目の沖野の常だった。
扱う事件といえば、自転棒、酔っ払いの喧嘩、迷い犬。
「駐さん、暇そうやな」
そう笑われることもあったが、沖野自はこの静かな町が嫌いではなかった。
話の相は物園の事務員だった。
「あの……うちの飼育員が、おらんのです」
「おらん?」
「猛獣舎に靴だけ残ってて……」
そこで相の声が詰まった。
沖野は帳をいた。
「すぐきます」
自転では遅いとい、原付にまたがった。
坂をがりながらも、まだ状況をうまく像できなかった。
靴だけ残して、がいない。
その言葉がので形にならない。
褪せた物園のアーチをくぐると、事務棟のに職員たちが集まっていた。
広告
おすすめ作品
-
完結第12話
昭和51年、帰宅目前で消えた25歳女性社員
「一人で静かに帰りたいので、大丈夫です」 昭和51年、25歳のみち子は飲み会のあと、一人でタクシーへ乗った。 運転手は、彼女を自宅からわずか50メートルの場所で降ろした。 「夜遅くにありがとうございました」 それが、みち子を見た最後の証言だった。 布団は朝まで誰にも使われず、通帳も着替えも部屋に残っていた。 上司と同僚には不自然な空白時間があったが、何も見つからなかった。 そして9年後。 亡くなった上司の娘が、遺品のアルバムを開いた。 失踪当夜の宴会写真の次に、見知らぬ和室を写した一枚が貼られていた。 机の上には、黒い女性用のハンドバッグ。 写真の裏には、みち子が消えた数日後の日付が押されていた。昭和|ミステリー|真相1.7万字5 6320 -
完結第10話
昭和63年、消えたいちご農園主――3年後の古い倉庫
「分かった。じゃあ、2時頃に行く」 昭和63年4月5日、いちご農園主の夫は、一本の電話を受けて家を出た。 「夕飯までには戻る」 それが、家族が聞いた最後の言葉になった。 通帳も印鑑も着替えも、すべて家に残されていた。 夫の手帳には、乱れた字で二行だけ書かれていた。 《佐藤さんの件、今日で決める》 《2時 古い倉庫》 しかし名前の挙がった男は、電話も面会も否定した。 倉庫の持ち主も、最初は「会っていない」と証言した。 夫の行方が分からないまま、3年が過ぎた。 そして倉庫の取り壊し当日、周囲と色の違う床へ重機の刃が入った。昭和|ミステリー|真相1.5万字5 112 -
完結第12話
合格発表の日、父が消えた
「お父さん、合格したよ」 2010年3月6日、18歳の栞が大学合格を知った日、父は帰ってこなかった。 勤務先の金庫からは480万円が消え、父のロッカーには仙台行きの新幹線切符が残されていた。 《もう父親でいる資格がない。二人で暮らしてくれ》 さらに大学には、栞が試験問題を買ったという匿名の告発まで届いた。 栞は合格を辞退し、父は金を持ち逃げした男として消息を絶った。 それから14年後。 閉鎖された予備校の隠し書庫から、栞の名前が書かれた答案用紙が見つかる。 封筒には、不可解な一文が添えられていた。 《本人は受験せず》 答案の文字は栞の筆跡ではなかった。 そして母は、14年間隠していた白い目覚まし時計を差し出した。 その修理票には、父が乗ったはずの新幹線が出た「32分後」の受付時刻が記されていた。ミステリー|真相1.8万字5 2577 -
完結第11話
13歳の娘だけ、保険証にいなかった
「お母ちゃん、どうして私の名前だけないの?」 昭和36年、藤井家に届いた新しい国民健康保険証。 父、母、10歳の弟、7歳の弟――家族全員の名前が並んでいた。 けれど13歳の美津子だけが、どこにも載っていなかった。 母は保険証を取り上げ、「役場の間違いだから」と隠した。 父も黙ったまま、一度も娘の顔を見なかった。 不安になった美津子は、翌朝一人で役場へ向かった。 職員は台帳をめくると、急に表情を曇らせた。 「お母さんと一緒に来た方がいい」 「私、藤井美津子ですよね?」 返事はなかった。 そして最後に、職員は重い口調で告げた。 「あなたは、修一さんと和子さんの戸籍には入っていないんだよ」 その夜、美津子が「私は誰の子なの」と問い詰めると、母は13年間隠してきた女性の名前を口にした。歴史|昭和|ミステリー1.6万字5 635 -
完結第11話
最終列車で消えた18歳
昭和63年、廃線前夜の最終列車に乗った18歳の娘が、途中で姿を消した。 終点に着いた車内には、旅行鞄と赤いマフラーだけが残されていた。 鞄の上には、駅長の父へ宛てた短い手紙。 《お父さんの決めた人生には戻りません》 娘は名古屋の短期大学へ進学する予定だったが、父は直前になって猛反対していた。 それから35年、娘の行方は分からないまま父は亡くなった。 翌年、解体中の旧駅で、伝言板の裏から薄い鉄箱が見つかる。 中には娘の受験票、12通の手紙、診断書、通帳、そして古い録音テープ。 受験票の裏には、失踪8日後の日付でこう記されていた。 《本人来校。入学辞退の意思なし》 ところが、その2日後には父の署名入りの辞退届が提出されていた。 さらに鉄箱から出てきた最終列車の切符には、改札鋏の痕が一つもなかった――。ミステリー|真相|行方不明1.6万字5 494 -
完結第11話
卒業3か月前に消えた娘
1995年11月、卒業まであと3か月だった富山大学4年生・大山蓮子が、突然消息を絶った。 家には財布も読みかけの本も残されていた。ところが、半年以上かけて集めた卒業論文の取材資料だけが、すべて消えていた。 蓮子は都市開発で土地を手放した住民たちを訪ね、補償金の記録を調べていた。失踪前、友人には「土地のお金を調べていたら、生きている人たちの話が出てきた」と漏らしている。 下宿に残された地図には、土地買収が行われた3つの地域を示す赤い丸。そして古い行政資料から浮かんだ担当者の名前は、失踪前夜に蓮子と口論していた叔父・達夫だった。 達夫には完璧なアリバイがあり、捜査はやがて縮小される。しかし6年後、赤い丸がつけられた土地の工事現場から、二重の袋で守られた2枚の書類が見つかった。 余白には蓮子の筆跡で、こう記されていた。 《単価に不自然な変更あり》 そして最後に――《担当者 大山達夫》。ミステリー|真相|行方不明1.6万字5 1140 -
完結第11話
合格発表の日、父は消えた
2003年3月8日、19歳の佐伯千春は第一志望の大学に合格した。ところが、その夜に祝うはずだった父・正雄は、勤務中のタクシーと黄色いチューリップだけを残して姿を消す。 車内には千春の合格通知書があり、料金メーターに残された最後の走行距離は43キロ。しかし、なぜか運賃は「0円」だった。さらに父のロッカーからは、《千春には大学を諦めてもらうしかない》と書かれたメモまで見つかる。 多額の借金を知った千春は進学を断念し、父に捨てられたという思いを抱えたまま20年を生きてきた。 2023年、廃業したタクシー会社の倉庫から、父が最後に運転した27号車が発見される。壊れた料金メーターを解析すると、正雄が失踪前の18か月間、毎月同じ施設から同じ乗客を乗せ、東京まで運んでいた記録が残されていた。 そして後部座席から見つかったのは、《佐伯千春》と印刷された一枚の生徒証。しかし、そこに写っていた少女は千春ではなかった。父はなぜ、見知らぬ少女へ娘と同じ名前を与え、合格発表の日に彼女を乗せたのか――。ミステリー|真実|真相1.6万字5 1565 -
完結第12話
消印は失踪の3日後
1996年、岐阜県北部の山あいの町で、配達中の女性郵便局員・小沢真紀が突然姿を消した。 郵便バイクは旧バス停のそばで見つかり、翌朝には河原で制服帽も発見された。警察は川への転落を疑ったが、真紀の姿はどこにもなかった。 それから25年後、閉鎖された旧郵便局の壁の中から、真紀の職員番号が書かれた郵便袋が見つかる。中には、亡くなったはずの人々に関する記録と、真紀が失踪3日後に投函した一通の手紙が残されていた。 そこに書かれていたのは、息子・拓海へ向けた不可解な指示。 「年賀状を全部調べて」 母は本当に川で消えたのか。なぜ死者の名前で年賀状が届き続けていたのか。そして父は、25年間何を隠していたのか。 届かなかった手紙が、長い沈黙の奥に封じられた真実を少しずつ暴いていく――。ミステリー|行方不明1.8万字5 317