みかん小説
本棚

"吹雪の一杯" 第2話

「すみません」

30代半ばほどの女性がっていた。紺のダウンコートに細かなを乗せ、きな革鞄を持っている。化粧はく、観客というより仕事帰りののように見えた。

「予約していないんですが、今夜、泊まれますか?」

「もちろんです。今はどのお部でも選び放題ですよ」

そう言って笑うと、女性はしだけ肩の力を抜いた。宿帳にかれた名は、佐々真帆。所は京で、職業欄だけが空だった。

「以、この辺りへいらしたことが?」

何となく尋ねると、真帆はすぐには答えなかった。

「ずいぶん昔に、度だけ」

それだけ言って、階へがっていく。ところが廊の途を止め、黒りした柱へを伸ばした。から70センチほどの位置に、細い引っかき傷が残っている。

真帆はその傷を指先でなぞり、誰にも聞かせるつもりのなかったような声で呟いた。

「……まだ残ってたんだ」

富美子の胸の奥で、何かがさくいた。

あの柱の傷をつけた子どものことを、富美子は覚えていたからだ。

翌朝、は10センチほど積もっていた。富美子が囲炉裏のをならしていると、真帆が階からりてきた。昨夜より表が柔らかく、窓のをしばらく眺めてからのそばに腰をろした。

「よく眠れました?」

「はい。久しぶりに、夜度も目が覚めませんでした」

広告

は本当に何もないですからね。夜になると、の音もしない」

「それがいいんだといます」

富美子がほうじ茶を差しすと、真帆は両で湯呑みを包んだ。朝には、蕗噌を添えた根、焼き卵、岩魚の甘煮、それから根菜をめに入れた噌汁をした。

真帆は噌汁をんだあと、箸を止めた。

「この……昔と同じですか?」

噌は毎しずつ違いますよ。豆も麹も、そのの寒さも違うから。でも、作り方は変えてません」

「誰に教わったんですか?」

「最初は姑です。怖いでね。噌を混ぜるつきが悪いって、何度もやり直させられました」

富美子が笑うと、真帆も笑った。ただ、そのあともう噌汁をんだ、彼女の目がわずかに潤んだように見えた。

「ご族と来たの?」

富美子が尋ねる。

「はい。8歳のです」

「お父様とお母様はお元気?」

真帆はしだけ線を落とした。

「父はくなりました。母は元気です」

それ以、富美子は聞かなかった。旅館をくやっていると、客には「話したいこと」と「話さないでおきたいこと」があると分かる。女将の仕事は、何でも聞きすことではない。

を終えた頃、からの音がした。引にってきたような、いエンジン音だった。

「おはようございます、女将さん」

玄関をけたのは、辰リゾート発の営業担当・慎吾だった。

広告

40代半。背がく、には似わない磨かれた革靴を履いている。

「今は約束してませんでしたけど」

くで別件がありまして。ついでですよ」

富美子は何も言わなかった。この周辺に辰リゾートの別案件があるとは度も聞いたことがない。

は真帆を見ると、瞬だけ線を止めた。

「お客様でしたか。失礼しました」

「どうぞお気になさらず」

真帆は静かに答えた。

へ移ると、回と同じ類を広げた。

「期限の件なんですが、今に決めていただきたいんです。こちらも次の計画がありますので」

「まだありますよね」

「そうなんですが、こういう話はい方が双方にとっていい」

は館内を見回した。囲炉裏、煤けた梁、の階段。だが、本当に建物を評価している線には見えなかった。

「女将さん、悪く言ってるんじゃないんですよ。ただ、今の観客が求めているものと、ここはしずれてるんです」

「そうでしょうか」

呂付き客、サウナ、貸切スパ、ラウンジ。そういう代でしょう。囲炉裏とか、自噌とか、好きなはいるでしょうけど、それだけでは商売にならない」

真帆のがわずかに止まった。

は気づかず続ける。

「建物も古いし、解体費用だってかかります。1780万円は、かなり頑張った数字ですよ」

富美子は、から気になっていたことをにした。

「では、どうしてそんなに急いで買いたいんです?」

の笑顔が瞬だけ止まった。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: