みかん小説
本棚

"「名前を書くな」公害病の申請を止めた父と、娘の「息がしたいだけ」" 第2話

卓へ戻し、い声で言った。

さなくていい」

は聞き違いだとった。

「何?」

「申請するな」

「どうして?」

「必ない」

の声がくなった。

「必があるかないかは先と相談して決めることでしょう。この子、今ってる途で息ができなくなったのよ」

忠雄の箸が止まった。

「分かってる」

「分かってるが、どうしてそんなこと言うの」

「とにかくすな」

忠雄は娘を見た。

「美紀。ここに自分の名くんじゃないぞ」

美紀は茶碗を持ったままけなかった。

「どうして?」

父は答えなかった。

「私、病気じゃないってこと?」

「そういう話じゃない」

「じゃあ何なの」

忠雄は申請を折り、芳へ返した。

「今はさなくていい。それだけだ」

美紀の胸の奥が、咳のとは違うたさで締めつけられた。

父は自分の苦しさを信じていないのかもしれない。

に診療所まで連れていってくれたのも、学で倒れたことを聞いて配そうにしたのも、結局はそのだけだったのだとった。

翌朝から、美紀は忠雄とほとんどをきかなくなった。

忠雄が「ってきます」と言っても顔をげず、夕で隣に座っても必なことしか話さない。芳は何度かに入ろうとしたが、美紀は「別にってない」と言い、忠雄も「放っておけ」と言うばかりだった。

しかし、その夜。

美紀が寝入ったあと。

広告

忠雄は卓の引きしをけた。

申請で取りし、眺めていた。

そして、誰にも見られないように。

作業着の胸ポケットから冊のさな黒い帳を取りした。

忠雄が化成へ入ったのは昭31だった。からてきたばかりの22歳で、最初に任されたのは原料の運搬だった。景気がよくなるにつれては増設を繰り返し、忠雄も設備の扱いを覚え、30代になってから保全係へ移った。

忠雄にとっては、単なる勤務先ではなかった。男がまれたも、美紀がまれたも、毎決まった料袋を持って帰れたのはのおかげだった。蔵庫を買えたのも、テレビを置けたのも、美紀を病院へ通わせ続けられたのも、その料があったからだった。

町そのものもと切りせなかった。商わせて特売をい、堂は夜勤けの員で朝から混み、も銭湯もの交替っていた。町内会の役員にも勤務の男がく、「がなくなれば町もなくなる」と冗談半分に言うさえいた。

美紀がだった頃、度だけ父へ尋ねたことがある。

「お父さんのって、何を作ってるの?」

忠雄はし考えてから笑った。

「町をきくするものだ」

美紀にはが分からなかったが、そのの父がし誇らしそうだったことは覚えていた。

広告

申請の話から、忠雄はの休憩所で同僚の野寺に呼び止められた。野寺は忠雄より3歳若く、同じ設備保全班で10緒に働いてきた男だった。

「忠雄、おんとこの娘、ぜん息なんだって?」

忠雄は缶入りの茶を置いた。

「誰から聞いた」

「うちの女が町内会で聞いたんだよ。学で倒れたって話まで広がってるぞ」

狭い町だった。

子どもが学で倒れれば、夕方には商まで話が届く。

野寺は周囲に誰もいないことを確認してから、さらに声を落とした。

「公害の申請するって、本当か」

忠雄の顔が固くなった。

「まだしてない」

「そうか」

野寺はらかにした。

その表を見た瞬、忠雄の胸にざらついたものが残った。

「何だよ、その顔」

「いや、別に。ただ最の名して騒ぐ連がいるだろ。何でも煙突のせい、会社のせいって。こっちはわせるために働いてるだけなのに、俺たちまで悪者みたいに言われたらたまらんよ」

野寺にも子どもが3いる。

を買い、まだ宅ローンが残っている。が止まれば困るのは忠雄だけではない。

「娘が苦しんでるのは事実だ」

忠雄が言うと、野寺は瞬だけをつぐんだ。

「そりゃ分かるよ。でも、申請したら会社のせいだって言うことになるんじゃないのか」

「まだ分からん」

忠雄はそれ以話さなかった。

そのの午、係の吉岡に呼ばれた。

さな事務へ入ると、吉岡は煙を吸いながら事資料を眺めていた。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: