"名札を戻せなかった夏" 第6話
伯母も疑わなかった。
戦争が終わったばかりの本では、各で同じように親を失った子どもたちが移していた。
学の資料が焼けた域もあった。
民の記録も完全には残っていない。
親戚を頼り、らないへく子。
孤児となり、施設やへ送られる子。
1の子どもの名と顔を、すぐに照できるような状況ではなかった。
澄は寺のをる、美津子を振り返った。
2の目がった。
何か言いたそうだった。
しかし伯母が呼んだ。
「美津子、くよ」
澄は瞬だけ目を閉じた。
そして伯母の方へ向き直った。
「はい」
その返事を聞いた、美津子の胸ので何かが切れたような気がした。
澄ではなく、美津子。
その名に返事をした友達。
「じゃあね」
澄が言った。
美津子もを振った。
「うん」
本当の名で呼びうことはなかった。
の向こうへ歩いていく2の姿が見えなくなるまで、美津子はそのにっていた。
胸には「森澄」とかれた名札がついていた。
そのの夜、美津子は1分広くなった布団の横を見た。
昨まで澄が眠っていた所には誰もいない。
そこに残っていたのは、自分ではない誰かの名をつけた自分だけだった。
「森澄」
翌朝、先にそう呼ばれた。
美津子は瞬返事が遅れた。
「森さん?」
「あ……はい」
初めて、自分のでその名に返事をした。
広告
それからはしずつ慣れていった。
戦の混乱ので、美津子は京へ戻らなかった。
戻っても、は焼けていた。
両親の消息も結局分からなかった。
「森澄」として残された美津子は、やがて方の紡績へ入ることになった。
女子寮にみ、働きながら暮らした。
最初の頃、名を呼ばれるたびに胸が痛んだ。
「森さん」
でそう呼ばれる。
「はい」
返事をする。
それを1に何度も繰り返した。
しずつ、その返事は自然になった。
誰も美津子の過をらなかった。
京のどこで暮らしていたのか。
両親がどんなだったのか。
本当の名が何だったのか。
詳しく聞く者はいなかった。
戦争で族を失った子どもは、美津子だけではなかったからだ。
それは美津子にとって苦しさであると同に、救いにもなった。
「森澄」でいるは、「桐美津子」の両親について答えなくてよかった。
母親がきているのか。
父親がどこへったのか。
なぜ自分だけ残ったのか。
分からないことを何度も考えずに済んだ。
方、潟へ向かった本当の澄は、「桐美津子」として伯母ので暮らし始めた。
伯母は澄を本当の姪だと信じていた。
事を用し、をえ、学へ通わせた。
「美津子」
その名で呼ばれるたび、澄は最初のうち胸が詰まった。
けれど本当のことを言うことはできなかった。
広告
度言えなかったものを、翌に言うことは難しかった。
1週にはもっと難しくなった。
1かには、さらに難しくなった。
やがて「桐美津子」という名の周りに、しい活が積みがり始めた。
2は度も会わなかった。
もかなかった。
互いの居所を詳しくろうともしなかった。
もしをけば、あの夜に決めたことを説しなければならなくなる。
もし会えば、元へ戻らなければならないような気がした。
だから2は、何も言わないままになった。
それは忘れたからではない。
忘れられなかったからこそ、触れなかったのだった。
戦争が終わり、本の町がしずつ姿を変えていくで、2の女も成していった。
「森澄」としてきる本当の美津子は、紡績で働き続けた。
朝になると女子寮をて、決められたに仕事へ入る。
戦しばらくの暮らしは決して楽ではなかった。
それでも寺で空腹に耐えた々をえば、働けばべられるというだけでありがたいとうこともあった。
同僚たちは彼女を澄と呼んだ。
「澄ちゃん」
「森さん」
最初は誰か別のを呼んでいるようにじていたその名も、が経つにつれて自然に振り向けるようになった。
やがて美津子は結婚し、2の子どもを育てる母親になった。
夫も子どもたちも、彼女を森澄としてっていた。
子どもが「お母さん」
広告
おすすめ作品
-
完結第23話
白線の先の女たち
昭和三十九年、女子競輪が終わりを迎えようとしていた。三十四歳の佐伯久美子は、最後の地元決勝で優勝する。しかし彼女が真っ先に求めたのは、花束でも拍手でもなく、次の出走表だった。返ってきたのは、もう走る場所はないという答え。そんな久美子の前で、十九歳の新人・夏子は「私は来年も勝ちたい」と訴える。仕事、家族、怪我、そして失われた競走の舞台。走ることを諦められない女たちは、それぞれの暮らしを背負いながら、新しい一歩を探し始める。時代|歴史|昭和|ミステリー3.0万字5 104 -
完結第15話
姉の身代わりで嫁いだら、冷酷当主の本命でした
家族に冷遇され、姉の身代わりとして“冷酷な当主”のもとへ嫁がされた澄乃。しかし初対面で、偽りの花嫁だと見抜かれてしまう。 追い返される覚悟をした澄乃に、静は「お前で構わない」と告げる。さらに帳簿を読む彼女の才能と、恐れながらも嘘をつかなかった誠実さを認めていく。歴史|昭和|ミステリー|夫婦|第二の人生2.0万字5 529 -
完結第22話
大正11年、幕開けの土下座から始まった女優の再起
大正11年、北陸の港町。旅回りの朝霧一座が芝居の幕を上げた瞬間、十五人の役者が客席に向かって土下座した。前売りの金は一座に届かず、衣装まで劇場に差し押さえられていたのだ。若い女優・志乃は、失われた金の行方を追い始める。やがて浮かび上がったのは、興行師の隠された借金と劇場主の不自然な勘定。さらに再起を懸けた公演を前に、看板役者が台本を持って姿を消してしまう。芝居も仲間も失いかけた志乃は、自分たちの手で新しい幕を開けようと決意する。時代|歴史|昭和2.8万字5 123 -
完結第21話
昭和29年、棟梁が祝いの柱を割った理由
昭和二十九年、上棟式の朝。棟梁・源吉は、自ら建てた家の柱に異変を感じ、祝いの客の前で斧を振り下ろす。内部から現れたのは、黒く傷んだ木だった。 仕事も信用も失いかける中、娘が見つけた不自然な印と、材木置場の青年の証言から、粗悪材の印を改ざんして売る仕組みが明らかになる。しかし源吉自身も、十分に検品せず判を押していた。時代|歴史|昭和2.7万字5 745 -
完結第20話
桑の音が消えた村
昭和三十五年、信州の養蚕村で、蚕が一夜にして全滅する。唯一無事だったのは、昔ながらの方法にこだわり、村人から笑われていた七十八歳のトヨの蚕室だった。 疑いを向けられた祖母だったが、原因は共同散布された新しい薬剤にあった。しかも農事組合を率いる息子・慎造は、事前に危険性を知らされていた。時代|歴史|昭和2.5万字5 1884 -
完結第20話
金色の髪を隠して嫁いだ私と、無口な写真師の約束
昭和四十二年。英国人の父から受け継いだ金色の髪を「家の恥」とされ、黒く染め続けてきた月子は、写真師・湊のもとへ嫁がされる。 雨で黒い煤が流れ、秘密が露わになっても、湊は彼女を拒まなかった。月子は写真館で働きながら、母の手紙や父の存在、叔母が隠してきた過去と向き合っていく。 見世物のように利用しようとする町の男にも屈せず、「何を見せるかは自分で決める」と声を上げる月子。隠された少女が、自分の姿と人生を取り戻す物語。時代|歴史|昭和2.9万字5 378 -
完結第18話
昭和38年、つなぐなと言われた救急電話
昭和38年、山間の電話交換所で働く澄子は、診療所から県立病院への緊急電話を受ける。重傷の17歳を救うための連絡だったが、主任は「その電話だけは絶対につなぐな」と命じた。 少年が亡くなった後、澄子の判断ミスとして処理されようとする。しかし記録を調べると、救急回線が止められていた時間にも、工事会社と本社、町役場の間では電話がつながっていた。時代|歴史|昭和|ミステリー2.3万字5 367 -
完結第20話
昭和34年、上野駅で名前を奪われた少女
昭和34年、青森から集団就職列車で上京した15歳の澄子。しかし迎えの男は、「佐藤澄子は昨日から働いている」と告げ、十二人のうち彼女だけを駅に置き去りにする。 工場では、石川鈴という少女が澄子の名前と勤務番号を与えられていた。さらに偽造された退職届、説明のない給与控除、未発送の手紙など、少女たちを名前と番号で管理する不正が次々と明らかになる。時代|歴史|昭和2.8万字5 1242 -
完結第16話
昭和53年、棟梁が俺を毎晩残した理由
十五歳で大工に弟子入りした直人は、一年間、掃除と雑用ばかりの日々を送っていた。ところが昭和五十三年の春、厳格な棟梁・源造から突然、「今日から毎晩残れ」と命じられる。 鉋、墨付け、仕口、図面。三年かけて覚えるはずの技を急いで教え込まれる一方、棟梁の体は日に日に弱っていく。やがて直人は、夜の稽古が自分を酷使するためではなく、残された時間で技術を託すためだったと知る。 師のいない現場で家を完成させた直人に遺されたのは、「半人前」と書かれた道具箱。しかし、その紙の下には、棟梁が生涯口にしなかった本当の言葉が隠されていた。時代|歴史|昭和2.6万字5 307 -
完結第16話
昭和24年、帰還した夫の家に別の夫がいた
戦地から四年ぶりに帰還した清太を待っていたのは、妻・文子と見知らぬ夫、そして二人の幼い娘だった。「ここはもう私たちの家です」と告げられ、清太は自分が死者として扱われていたことを知る。 出征直前、文子の胎内にいた息子・浩はすでに八歳。しかし浩は母のもとではなく、山村の伯母夫婦に育てられていた。妻も家も息子も取り戻したい清太だったが、彼のいない四年間にも、それぞれが生き延びるために築いた暮らしがあった。 実父の清太、母と暮らす政男、自分を育てた伯父。三人の「父」を持つ浩を前に、清太は家族が奪い返すものではないと気づいていく。時代|歴史|昭和1.4万字5 240