"尋ね人が呼んだ母の旧姓" 第6話
夫も何と言えばいいか分からなかった。
目のの恵子は、今まで度もを挟まなかった。
やがて清が尋ねた。
「恵子さんは、このことをどこまでっていたんですか」
恵子はし姿勢を正した。
「私も最まで、本当の娘だとっていました」
夫は驚いて顔をげた。
恵子は幼い頃の記憶を、断片にしか覚えていなかった。
が勢いたこと。
く歩いたこと。
寒かったこと。
お腹が空いていたこと。
そして、いつも自分のを握ってくれた若い女性。
その女性を「お母さん」と呼んでいた。
本へ戻った、恵子は別ので育った。
成するにつれて、幼い頃のことを尋ねても、周囲は詳しく説しなかった。
「戦争のにいろいろあった」
「さかったから覚えていないだけだ」
そう言われることがかった。
恵子自も、文子が実母ではないとは考えなかった。
ただ、自分を育てている女性と、幼い記憶のの「お母さん」が同じではないことだけは分かっていた。
それでも、戦争でき別れたのだとっていた。
いつか探したい。
そう考えながら成した。
ところが、恵子をく育ててきた女性がくなる直、1通の古いを渡した。
そのには、恵子がらなかった事実がかれていた。
「あなたを本へ連れて帰ったは、本当のお母さんではない」
恵子は最初、そのが理解できなかった。
広告
自分の記憶のにいる母。
引き揚げの記録にかれている母。
そのが実母ではない。
では、自分の本当の母親は誰なのか。
には「子」という名も残されていた。
それが実母だとかれていた。
恵子は混乱した。
文子という女性は誰なのか。
なぜ自分を娘だと言ったのか。
本当の母親である子は、そのどうなったのか。
きて本へ帰ったのか。
自分を探したのか。
答えをるため、恵子は古い記録を調べ始めた。
だが、終戦直の記録は分ではなかった。
そこで最に頼ったのが、ラジオの「尋ね」だった。
「文子という名だけは、記録にはっきり残っていました」
恵子が文子を見た。
「だから、もしかしたら届くかもしれないとったんです」
全国のどこかで、聞いているかもしれない。
あるいは、その名をるが聞いているかもしれない。
それだけを頼りに申し込んだ。
そして本当に、文子へ届いた。
「京で会った、お母さんが私を見て、すぐ泣いたでしょう」
恵子が言った。
文子は目を伏せた。
「顔を見たら分かったの。あのの子だって」
「私は顔まではほとんど覚えていませんでした」
恵子はし笑った。
「でも声を聞いたら、なぜかしました」
幼い頃、何度も聞いた声だったのかもしれない。
記憶としてはいせない。
それでも体のどこかに残っていた。
広告
文子は京で、恵子に実母ではないことを告げた。
だから岡田を訪ねてきた今、恵子はその事実をすでにっていた。
それでも玄関を入り、文子の顔を見た瞬、
「やっぱり、お母さんですね」
と言ってしまった。
「本当のお母さんじゃないって分かったのに?」
夫が尋ねた。
恵子は夫を見た。
「分かったからこそ、余計にそうったのかもしれません」
夫には、そのがすぐには理解できなかった。
だが恵子の表を見ると、それ以聞けなかった。
清がく息を吐いた。
「子さんのことは?」
恵子は首を横に振った。
「まだ分かりません」
実母があのどうなったのか。
それだけが、まだ残されたきな謎だった。
文子はさく言った。
「私も探したい」
恵子が顔をげた。
「今度は、緒に探させて」
13、途でできなくなったことを、もう度やり直すような言葉だった。
子の消息を調べる作業は、すぐに答えがるものではなかった。
文子と恵子が覚えていることを1つずつきし、当の移記録や引き揚げに関する資料をたどった。
文子の記憶も、13というので曖昧になっている部分があった。
どの所で子とりったのか。
どこまで緒に移したのか。
最に見たのはどの点だったのか。
当は名を確認する余裕もないまま、の流れについていていたこともかった。
それでも文子は、いせる限り話した。
広告
おすすめ作品
-
完結第11話
退職と書かれた娘たち
大正7年、大阪の町外れにある紡績工場では、毎月のように一人の女工が姿を消していた。 帳簿にはただ「退職」と記されるだけ。だが、消えた娘たちの荷物は寄宿舎に残されたままだった。櫛、手鏡、故郷からの手紙、大切にしていた着物まで――本当に自分の意思で帰ったのなら、なぜ何も持っていかなかったのか。 16歳のフミは、その不自然さに気づきながらも、家族への送金のために黙って働き続けていた。 しかし、親友の千代まで突然「退職者」として消えた時、フミは初めて工場の闇に足を踏み入れる。 病気、借金、望まぬ縁談、そして古い賃金台帳に隠された記録。 「退職」という二文字の裏で、若い女工たちは何を奪われ、何を守ろうとしていたのか――。昭和1.6万字5 101 -
完結第11話
預かったままの革靴
昭和25年、戦後の面影が残る東京の駅前で、13歳の健二は靴磨きをして暮らしていた。 父は戦争から帰らず、母も亡くなり、頼れる人もいない。寒さと空腹に耐えながら、健二は毎日、通り過ぎる人々の靴を磨いていた。 そんな健二の木箱の横には、いつも一足の古い黒い革靴が置かれていた。 右のつま先には深い傷。左のかかとはすり減り、決して立派な靴ではない。それでも健二は、その靴だけは売ることも履くこともなく、何年も丁寧に磨き続けていた。 「取りに来るんだ」 そう言って、健二は持ち主を待ち続けた。 なぜ少年は、その一足を最後まで手放さなかったのか。 18年後、小さな靴修理店を開いた健二の前に、一人の老人が現れる。 古い革靴に込められていたのは、戦後を生きた人々の、名前も残らない小さな優しさだった――。昭和1.7万字5 94 -
完結第11話
名札を戻せなかった夏
昭和19年、学童疎開の列車に乗った二人の少女は、ほんのいたずらのつもりで胸の名札を取り替えた。 「明日になったら戻そうね」 そう笑って交わした小さな約束。けれど、戦争はその約束を簡単には戻せないものにしてしまう。 東京大空襲、家族の消息不明、終戦直後の混乱。迎えのない子どもたちが不安の中で待つ寺に、ある日、一人の伯母が現れる。 「桐生美津子を引き取りに来ました」 その時、立ち上がったのは、本当の美津子ではなかった。 たった一枚の名札が、二人の人生を入れ替えてしまう。 そして21年後、古い疎開写真に残された違和感が、封じられていた真実を静かに呼び覚ます――。昭和1.6万字5 2212 -
完結第12話
家族写真の左端
明治42年、信州の城下町で生糸問屋を営む高瀬家は、初めて一家そろって写真館を訪れた。 紋付き袴の父、着物姿の母と子どもたち、そして椅子に座る祖母。出来上がった写真には、たしかに家族全員が写っていた。 しかし、背景の柱のそばに、誰も知らない若い男が一人だけ立っていた。 撮影の日、その場にいたのは高瀬家の者だけだったはず。しかも男の姿は、まるで古い記憶が重なったように薄く写っていた。 写真を見た祖母は、震える声で一つの名前を呟く。 「宗吉……」 家族の誰も聞いたことのないその名前は、高瀬家が長い間封じてきた過去へとつながっていた。 なぜ、その男の存在は家族から消されていたのか。 一枚の失敗写真が、明治の商家に隠された“もう一人の家族”の真実を静かに浮かび上がらせていく。昭和|兄弟姉妹1.8万字5 190 -
完結第10話
質屋に出された夫の時計
大正12年9月1日、関東大震災の混乱の中で、千代の夫・信介は日本橋近くの建築会社へ出勤したまま消息を絶った。 会社の建物は崩れ、火災も広がり、周囲は「もう助からないだろう」と口にした。けれど千代だけは、夫の死を受け入れられずにいた。 そんな中、近所の質屋から信介の懐中時計が見つかる。結婚の時、千代が贈った大切な時計。それを持ち込んだのは、信介とは別の見知らぬ男だった。 なぜ、夫の時計が質屋にあったのか。 さらに信介の机からは、千代の知らない鍵と、本郷の下宿の住所が書かれた紙片が見つかる。まとまった金の引き出し、汽車の切符、秘密の部屋――。 夫は震災を利用して、家族を捨てようとしていたのか。 疑いと悲しみに揺れる千代がたどり着いた先には、信介が最後まで隠し続けた、もう一つの真実が待っていた。昭和1.5万字5 89 -
完結第11話
映画の夜に消える少女
昭和32年、長野の山あいの小さな村では、月に一度だけ巡回映画がやって来た。 村中が講堂に集まり、映写機の音に胸を躍らせる夜。17歳の美代も誰より映画を楽しみにしていた。ところが彼女は、上映が始まる直前になると、必ず村から姿を消してしまう。 男と会っているのではないか。何か隠し事をしているのではないか。 噂が広がる中、兄の正夫はある夜、美代の後を追う。彼女が向かった先にいたのは、目の見えない一人の老人だった。 なぜ美代は映画を見ずに、毎月その老人のもとへ通っていたのか。 そしてある夜、戦前に撮られた古いフィルムが、彼女自身も知らなかった母の記憶を映し出す――。昭和1.6万字5 193 -
完結第11話
三度目の金色の玉
昭和53年、東京郊外の古い商店街で、歳末福引が始まった。 一等は自転車。誰もが楽しみにする年末の小さな行事だったが、そこで一人の女性が3年続けて一等を引き当てる。 夫を亡くし、息子と二人で暮らす小林千代。 あまりの偶然に、商店街では「福引は最初から決まっていたのではないか」という噂が広がり始める。 そして翌年、八百屋の若主人が福引の準備中に見てしまったのは、会長がこっそり隠していた金色の玉だった。 本当に不正だったのか。 なぜ千代だけが、毎年一等を引いていたのか。 その裏には、商店街の人々が長年黙って守り続けた、ある亡き男への恩と、一人の女性の静かな選択が隠されていた――。昭和1.7万字5 308 -
完結第10話
届かなかった母の手紙
昭和36年、15歳の芳子は秋田の小さな村を離れ、集団就職列車で東京へ向かった。 別れ際、母のハルは「困ったら手紙を書くんだよ」と何度も言い、芳子も「母ちゃんも書いてね」と約束した。けれど、東京の女子寮に届く郵便の中に、母からの手紙は一度もなかった。 誕生日にも、正月にも、病気で寝込んだ時でさえ、母からの返事はない。芳子の寂しさは、やがて怒りへと変わっていく。 そんなある日、村の郵便局員が芳子のもとを訪れ、古い木箱を差し出した。 中に入っていたのは、切手の貼られていない何十枚もの葉書。 母は本当に、一度も手紙を書かなかったのか。 届かなかった葉書に残されていたのは、芳子が4年間知らなかった、母の深い想いだった――。昭和1.5万字5 451 -
完結第11話
最後の迷子放送
昭和49年、地方都市の駅前にある丸光百貨店では、毎月第1日曜日の午後3時になると、決まって同じ迷子放送が流れていた。 「京ちゃん。京ちゃん。お母さまが1階案内所でお待ちです」 しかし、その名前を呼ばれても、子どもが現れることは一度もなかった。案内所で働き始めたばかりの中村恵子は、不思議に思いながらも、毎月やって来る小柄な婦人の頼みを見つめ続ける。 なぜ彼女は、何年も同じ名前を呼び続けるのか。 そして、放送が最後になると告げられた日、ずっと現れなかった「京ちゃん」が、ついに百貨店へ戻ってくる――。昭和1.6万字5 312 -
完結第10話
五輪を見なかったテレビ屋
昭和39年10月10日、東京オリンピックの開会式の日。 商店街のテレビ店「藤田電器」には、テレビを持たない町の人々が集まり、店先の白黒画面に映る国立競技場を見つめていた。日本中が復興の喜びに沸くその日、店主の藤田信夫だけは、なぜか開会式を見ようとしなかった。 息子の浩一が店の奥を探すと、父は倉庫で古い木箱の前に一人座っていた。 「父ちゃん、始まったよ」 そう声をかけても、信夫はただ「お前は見てこい」と言うだけだった。 それから長い年月が過ぎ、父の死後、浩一は倉庫の奥から一冊の手帳と、昭和21年の上野で撮られた古い写真を見つける。そこには、戦後の焼け跡を生きた父と、4人の少年たちの姿が残されていた。 なぜ父は、日本中が歓声を上げた東京五輪の開会式を見なかったのか。 古い手帳に残された約束が、浩一の知らなかった父の戦後を静かに明かしていく――。昭和1.6万字5 218