"「ただいま」と帰った亡き夫" 第3話
しかも別の男を「お父ちゃん」と呼んで暮らしている。
そのだった。
玄関の戸がく音がした。
「ただいま」
節子の声だった。
佐子の背が固くなった。
節子は学の鞄を抱えたまま茶のへ入ってきたが、らない男の姿を見つけると、そのでを止めた。
「……お母ちゃん、この誰?」
信夫の顔がゆっくりと崩れた。
赤ん坊だった節子しからない父親。
写真のでしか父親を見たことのない娘。
2は、まるでのように見つめった。
「節子……」
信夫が名を呼んだ。
節子は驚いた顔をし、佐子の方を見た。
「なんで私の名ってるの?」
佐子は息をえた。
何と言えばいいのか分からなかった。
んだはずの父親。
本当の父親。
最初のお父さん。
どの言葉も、急に12歳の娘へ渡すにはすぎた。
信夫が先にをいた。
「きくなったな」
声が震えていた。
節子は戸惑ったまま、しずさりした。
そして佐子のろへ隠れた。
その仕を見た瞬、信夫はを閉じた。
征する朝、信夫は節子の頬を何度も撫でた。
収容所でも娘の顔を忘れないよう、古い写真を何度も見た。
なのに節子のには、自分との記憶が1つもない。
「このは……」
佐子が言いかけた、節子が首を傾げた。
佐子は覚悟を決めた。
「節子のお父さんや」
娘の顔から表が消えた。
「お父ちゃん?」
「違う」
わずそう答えてから、佐子は自分の言葉に苦しくなった。
広告
「違うっていうか……節子を産んだの、お父さん」
節子は理解できない様子で信夫を見た。
「んだって言ってた?」
その言葉に、信夫はさく頷いた。
「そうわれてたんだ」
節子は何も言わなかった。
しばらくして、自分の部へってしまった。
襖が閉まる音がしたも、信夫はその方向を見続けていた。
「俺のこと、らないんだな」
佐子には何も言えなかった。
らなくて当然だった。
節子にとって父親とは、毎朝鉄所へかけ、運会へ来て、自転を買ってくれた隆だった。
そのの夕方。
庭のが青く見え始めた頃、玄関で音がした。
隆が仕事から帰ってきた。
「ただいま」
いつもの声。
けれど玄関へ入った瞬、隆は見慣れない靴に気づいた。
佐子は茶のでったまま、どう迎えればいいか分からなかった。
隆が襖をける。
そして、信夫を見た。
が止まった。
信夫もちがった。
2は昔からっていた。
戦争へく、同じ町で顔をわせていた。
それから11。
片方は帰ってこない男として記憶され、もう片方は残された族を守ってきた。
最初にをげたのは隆だった。
「……きてたのか」
信夫もくをげた。
「世話になった」
それだけだった。
鳴り声もなかった。
責める言葉もなかった。
だから佐子には、余計につらかった。
そのの夕は、誰もを覚えていなかった。
広告
いつもなら4で囲むさな卓袱台を、5が囲んだ。
佐子は噌汁をよそいながら、どこへ誰を座らせるべきなのかさえ迷った。
節子は迷わず隆の横へ座った。
正彦もいつもの所へ座った。
信夫は卓袱台の向こう側で、2の子どもを静かに見ていた。
正彦だけが、のに漂うい空気を理解していなかった。
「このおじさん、誰なん?」
昼の説を聞いていなかった正彦が尋ねた。
佐子がをくより先に、節子がさな声で答えた。
「私のお父さんなんだって」
「お父ちゃんいるやん」
正彦は隆を指さした。
節子は俯いた。
信夫も線を落とした。
正彦はさらに聞いた。
「このおじさん、泊まるの?」
誰もすぐには答えられなかった。
しばらくして隆が箸を置いた。
「今は泊まってもらったらええ」
その言い方はいつもと変わらず静かだった。
信夫はをげた。
「すまない」
事の、会話はほとんど続かなかった。
正彦が学の話をし、佐子が相槌を打つ。
節子は黙ってご飯をべる。
隆は々信夫へ線を向けるが、何も聞かない。
信夫も、自分から族の活へ入り込むようなことは言わなかった。
、佐子は布団を用した。
信夫が寝ることになったのは仏だった。
そこには、信夫自の位牌が置かれていた。
佐子はそれに気づき、慌てて片づけようとした。
しかし信夫が止めた。
「そのままでいい」
広告
おすすめ作品
-
完結第23話
白線の先の女たち
昭和三十九年、女子競輪が終わりを迎えようとしていた。三十四歳の佐伯久美子は、最後の地元決勝で優勝する。しかし彼女が真っ先に求めたのは、花束でも拍手でもなく、次の出走表だった。返ってきたのは、もう走る場所はないという答え。そんな久美子の前で、十九歳の新人・夏子は「私は来年も勝ちたい」と訴える。仕事、家族、怪我、そして失われた競走の舞台。走ることを諦められない女たちは、それぞれの暮らしを背負いながら、新しい一歩を探し始める。時代|歴史|昭和|ミステリー3.0万字5 122 -
完結第22話
大正十四年、卒業式で制服を脱いだ三十七人――母の署名に隠された秘密
大正十四年、信州の私立女学校。卒業を控えた小林操は、式服の代金を払えない七人の同級生が、記念写真から外されると知る。卒業式当日、三十七人の少女たちは一斉に紺色の上衣を脱ぎ、学校の決定に抗議した。しかし校長は卒業証書の交付を拒否。さらに、式服を仕立てた十二人の女性たちにも賃金が支払われていないことが明らかになる。しかも、学校の注文が取り消された場合の弁償書には、操の母の署名があった。友人を守るための行動が、なぜ母たちの暮らしを脅かすことになったのか。時代|歴史|昭和3.0万字5 196 -
完結第22話
消えた十一丁の鍬
昭和十七年、山形県の小さな山村。金属回収が進むなか、老鍛冶屋の徳兵衛は、村人から預かった二十七丁の鍬を納屋に隠し、「一丁も渡さん」と言い張った。父の頑固さに反発する息子・信一は、持ち主へ農具を返すため、一丁ずつ修理の予定を立て始める。ところが翌朝、十一丁の鍬から鉄の刃だけが消えていた。父が密かに作っていたのは、村の水門を守るための金具だった。しかし、その水門には誰も知らない危険が隠されていた。時代|歴史|昭和2.8万字5 115 -
完結第23話
昭和53年、満員の始発を止めた運転手――その後、坂道で起きた悲劇
昭和53年7月30日。沖縄の交通が右側通行から左側通行へ切り替わった朝、55歳のバス運転手・新垣清徳は、32人の乗客を前に始発の発車を拒んだ。用意された旧型バスは、乗降口が車道側に開く危険な車両だったのだ。しかし欠便を恐れる主任は、若い運転手にその車を出すよう命じてしまう。やがて坂下から届いたのは、一人の少年が負傷したという知らせ。なぜ危険だと分かっていたバスが走ったのか。清徳は息子や同僚たちとともに、事故の責任と、誰も気づかなかった道路の危険に向き合っていく。職場逆転|時代|歴史|昭和|裡の顔3.0万字5 413 -
完結第20話
昭和19年、三十二人が夕飯を拒んだ理由
昭和十九年、信州の寺に集団疎開した子どもたちが、ある晩、いっせいに箸を置いた。「一人だけ、まだ食べていません」。病に伏せる少女・妙子の食事を案じた十二歳の正雄は、食卓に並ぶ膳の数に奇妙な違和感を覚える。やがて納屋の柱に刻まれた米俵の数、届かない食糧、教師の印が押された受領書が浮かび上がる。さらに役場の名簿には、寺で暮らす八人の子どもが翌月から消されることになっていた。誰が、何のために食糧と子どもたちの名前を動かしているのか。時代|歴史|昭和|真実|真相2.8万字5 170 -
完結第22話
空の米びつと一合の嘘
昭和二十三年、大阪の小さな米屋で、女将のフミが配給米を一合ずつ少なく渡しているという噂が広まった。怒った住民たちが店へ押しかけ、米を隠しているはずの台所を調べると、そこにあったのは空っぽの米びつと薄い麦粥だけだった。なぜ客の米を減らしながら、自分の子どもにさえ白いご飯を食べさせられないのか。母の沈黙を不審に思った長男・勇一は、配給帳と運送記録を調べ始める。やがて浮かび上がったのは、途中で姿を消す米袋、受け取っていないのに押された印、そして二年前に亡くなった父の署名だった。時代|歴史|昭和|兄弟姉妹2.8万字5 171 -
完結第22話
一等くじの切れ目
昭和三十五年の暮れ。五人の子を育てる田村和子は、商店街の福引で念願の電気洗濯機を引き当てた。冬の冷たい水で毎日洗濯をする彼女にとって、夢のような幸運だった。ところが、くじの角に不自然な切れ目を見つけた和子は、景品を受け取らず抽選箱の確認を求める。その日から町には悪い噂が広まり、夫の仕事にまで影響が及び始めた。さらに、姿を消した文具店の少年が深夜に現れ、娘の美津に関わる秘密を告げる。時代|歴史|昭和2.8万字5 127 -
完結第22話
大正11年、幕開けの土下座から始まった女優の再起
大正11年、北陸の港町。旅回りの朝霧一座が芝居の幕を上げた瞬間、十五人の役者が客席に向かって土下座した。前売りの金は一座に届かず、衣装まで劇場に差し押さえられていたのだ。若い女優・志乃は、失われた金の行方を追い始める。やがて浮かび上がったのは、興行師の隠された借金と劇場主の不自然な勘定。さらに再起を懸けた公演を前に、看板役者が台本を持って姿を消してしまう。芝居も仲間も失いかけた志乃は、自分たちの手で新しい幕を開けようと決意する。時代|歴史|昭和2.8万字5 128 -
完結第21話
昭和29年、棟梁が祝いの柱を割った理由
昭和二十九年、上棟式の朝。棟梁・源吉は、自ら建てた家の柱に異変を感じ、祝いの客の前で斧を振り下ろす。内部から現れたのは、黒く傷んだ木だった。 仕事も信用も失いかける中、娘が見つけた不自然な印と、材木置場の青年の証言から、粗悪材の印を改ざんして売る仕組みが明らかになる。しかし源吉自身も、十分に検品せず判を押していた。時代|歴史|昭和2.7万字5 803 -
完結第20話
桑の音が消えた村
昭和三十五年、信州の養蚕村で、蚕が一夜にして全滅する。唯一無事だったのは、昔ながらの方法にこだわり、村人から笑われていた七十八歳のトヨの蚕室だった。 疑いを向けられた祖母だったが、原因は共同散布された新しい薬剤にあった。しかも農事組合を率いる息子・慎造は、事前に危険性を知らされていた。時代|歴史|昭和2.5万字5 1968