"出生届を止めた助産婦" 第3話
千代が呻いた。
「先……」
ハルはすぐ千代の方へ向き直った。
その直、作蔵がしい湯を持って入ってきた。
「どっちをどうしたらいい?」
「そこへ置いて。いや、こっちです」
ハル自、になって何度もい返した。
どの瞬だったのか。
千代の子をどちらへ置いたのか。
静の子をどちらから抱きげたのか。
たった数秒ほどのことなのに、その部分だけがのへ沈んだように曖昧だった。
千代の状態がようやく落ち着いた、空はみ始めていた。
ハルはの赤子を千代の胸元へ寝かせた。
「あなたの赤ちゃんですよ」
千代は目をけることもできないまま、赤子の頬へ指先だけを触れた。
「きてる……?」
「ええ。ちゃんときています」
ハルはもうを籠へ入れた。
へ帰らなければならない。
静のことも気がかりだった。
作蔵に千代と赤子の様子を見る方法を伝え、ハルは再びがりのへた。
静のへ戻ったのは、朝7を過ぎた頃だった。
フミが戸まで迎えに来た。
「先、遅かったねえ」
「千代さんが難産で」
「こっちは丈夫ですよ。静もし眠れました」
ハルは籠から赤子を抱きげた。
疲れていた。
腕も肩もい。
ほとんど晩眠っていないで、それでも笑顔を作って静の枕元へ座った。
「よく頑張りましたね」
静が目をける。
「赤ちゃん……」
広告
「ここにいますよ」
ハルは赤子を静の腕へそっと渡した。
静は泣きそうな顔で笑った。
「さい……」
「でも元気です」
赤子は母親の胸へ顔を寄せ、さなをかした。
その姿を見ながら、ハルはようやくい夜が終わったとった。
この点では、何つ疑っていなかった。
同じ夜にの女の子を取りげた。
ともきている。
母親たちも命をつないだ。
それだけで分にありがたい夜だったはずだった。
だが翌の午。
ハルは静ので、赤子の産着を替えているにを止めた。
の肩が、かった。
「……あれ?」
静が顔をげた。
「どうかしました?」
「いいえ」
ハルは笑ってごまかした。
けれど胸の奥に、さな棘のような違が刺さった。
昨。
産湯の。
確かにこの子の肩には、米粒ほどの青い痣があったはずだった。
ハルは自分の記憶を疑った。
晩にの産へち会い、ほとんど眠らずにを往復した。疲れ切ったで見たものなど、当てになるはずがない。青い痣だとったものも、産まれたばかりの皮膚にできたなだったのかもしれない。
「先、何か気になるんですか」
静が尋ねた。
「いいえ。ちょっと眠れていないだけですよ」
そう答えながら、ハルは赤子のへ目をやった。
指。
まっすぐだった。
その瞬、胸の奥の棘がしきくなった。
広告
静を取りげた直、ハルは確かにったのだ。
の指が内側へ向いていて、かわいいだと。
だが記憶とは、からいくらでも形を変える。
つ気になるものを見つければ、それにうように過まで作り替えてしまうことがある。く助産婦をしてきたからこそ、ハルは自分の記憶だけでのをかしてはいけないこともっていた。
「も来ますね」
静のをたハルは、そのままの炭焼きへ向かった。
千代はまだから起きられなかった。
血は落ち着いていたものの、顔はく、話す声にも力がない。作蔵は囲炉裏で米粥を煮ながら、赤子が泣くたびに慌てて振り返っていた。
「先、この子、あまり乳をまないんです」
「まださいから、しずつでいいですよ」
ハルは赤子を抱きげた。
そして、息を止めた。
肩。
産着の。
い青のさな痣。
米粒ほどのきさ。
見違えるはずがないとった。
「先?」
作蔵がこちらを見る。
「……何でもありません」
ハルは赤子を抱いたまま、今度はを見た。
指が、わずかに内側へ向いていた。
ので、夜の景が気につながった。
の。
静の産声。
肩の痣。
指。
籠。
。
の。
の赤子。
同じい産着。
千代の呻き声。
こぼれた湯。
自分の両腕。
――違う。
ハルはっていられないほどの眩暈を覚えた。
「先、本当にどうしたんです」
作蔵がづこうとした。
「ちょっと、寝ていなくて」
ハルは赤子を千代のそばへ戻した。
「今はもう帰ります。
広告
おすすめ作品
-
完結第11話
母が守った「4人目」
昭和23年の冬。空襲で夫を亡くし、3人の子どもを育てる富美は、配給所へ行くたびに言い張った。 「うちは、子どもが4人です」 台帳に残るもう一人は、3年前の空襲で消息を絶った長男・正一だった。町内から「いない子の分まで受け取るのはずるい」と責められ、次男の昭夫まで学校で泥棒扱いされる。 耐えかねた昭夫が母に内緒で配給人数を訂正しようとすると、富美は物置へ彼を連れていった。そこには3年間、一粒も食べずに取っておいた正一の米があった。 「帰ってきた時、また“あなたの分はない”なんて言いたくなかったの」 しかし厳しい冬のある日、空腹で震える少年が家を訪れる。富美は長い間守り続けた甕を見つめ、やがて昭夫へ静かに告げた。 「取ってきて」――正一を待つための米が、今ここにいる子どもたちの命をつなぐ食事へ変わった夜だった。時代|歴史|昭和1.6万字5 20 -
完結第10話
知らない家族が守った家
昭和27年、7年間接収されていた世田谷の自宅へ、ようやく戻った杉浦一家。 ところが庭には洗濯物が干され、家の中には見知らぬ母子が暮らしていた。しかも7歳ほどの少年が、杉浦家の仏壇に毎朝手を合わせていた。 「今週中に出ていってください」 家を取り戻した忠雄に譲るつもりはなかった。しかし母子には行き先がなく、二つの家族は一時的に同じ屋根の下で暮らすことになる。 やがて押し入れから、亡くなった母子の父親が残した古い帳面が見つかった。そこには屋根や雨戸、仏間を修理した7年間の記録が、細かな日付とともに記されていた。 「ここは自分たちの家ではない。いつか持ち主が帰ってくる」 少年が仏壇へ手を合わせていたのは、帰る場所を失った父が、まだ見ぬ家主のために守り続けた約束だった――。時代|歴史|昭和1.5万字5 44 -
完結第12話
開けなかった手紙
昭和49年、過疎化が進む瀬戸内海の白波島。住民がわずか10世帯になっても、郵便配達員の木村正吉は毎朝、渡し船に乗って島へ通い続けていた。 島の高台に一人で暮らす大崎源次郎には、離れて暮らす三人の子どもから毎週必ず手紙が届く。ところが正吉が偶然目にしたのは、封も切られないまま何十通も積み上げられた手紙だった。 「読まないなら、なぜ受け取るんだ」 問い詰められた源次郎は、ようやく秘密を明かす。一通を明日へ残しておけば、明日起きる理由になる――手紙は孤独な老人が自分のために用意した「明日の予定」だった。 やがて島への毎日の定期便が廃止され、源次郎も娘の暮らす堺へ移ることを決める。最後の船が出る直前、正吉は娘から届いた一通の手紙を手渡した。 いつもなら明日まで開けないはずの源次郎が、その場で封を切った。そこには「今度からは手紙を書きません」と記されていた――もう手紙を残さなくても、明日になれば同じ家で話せるから。時代|歴史|昭和1.7万字5 34 -
完結第11話
最後の転校届
昭和40年、ダム建設によって水没する杉ノ沢村では、家々が次々と解体され、ただ一つの小学校にも5人の児童しか残っていなかった。 女性教師・森山佳代子が気にかけていたのは、6年生の中村修一だった。ほかの家族が転校手続きを終える中、修一だけは転校届を持ってこない。父親は移転に反対していないはずなのに、なぜ息子の進路だけ決めないのか。 ある日、佳代子が中村家を訪ねると、家はすでに取り壊されていた。修一は一か月以上も前に移転し、十数キロ離れた新居から、雨の日も自転車で旧村の学校へ通い続けていたのだ。 「なくなるなら、最後までいたい」 卒業まで杉ノ沢小学校へ通いたいと訴える修一。しかし冬が訪れ、雪にまみれて登校した少年を前に、佳代子はついに父親が差し出した転校届を受け取る。 故郷を奪いたくないという少年の願いと、未来へ送り出さなければならない教師の責任。村が湖底へ消える最後の春、二人の別れをつなぐ一枚の写真が残される――。時代|歴史|昭和1.6万字5 44