"十四歳で板前奉公へ――少年が料理人になるまで" 第2話
寅吉は板の隅にあった黒ずんだ雑巾を投げた。
「おの最初の仕事は、それだ」
正の元へ、濡れた雑巾が落ちた。
松乃でのは、正が像していた料理の暮らしとは全く違っていた。
朝はまだが暗いうちに起こされた。井戸からを汲み、板と廊を拭き、鍋を洗い、炭を運び、酒へる。終わったとえば、今度はから届いた箱を片づけろと言われた。
包丁には度も触らせてもらえなかった。
魚をさばく音だけが、洗いの向こうから聞こえる。
正はをかしながら、何度もそちらを見た。
先輩の、竜次がそれに気づいた。
「何見てんだ、僧」
「別に」
「包丁使いたいのか?」
正は黙った。
竜次は笑った。
「えよ」
昼過ぎ。
正は雑巾をく絞れず、廊を浸しにした。
寅吉の鳴り声がんだ。
「客商売を何だとってる!」
正は肩を竦めた。
夕方には茶碗をつ欠けさせた。
夜には鍋を持つが滑り、先輩にを蹴られた。
「使えねえな」
み込みの部は階の畳だった。
正を含め。
布団を並べれば、の踏みもほとんどない。
指先は仕事でふやけ、さな傷だらけになっていた。
「料理になりに来たのに」
さく呟くと、隣の布団で竜次がで笑った。
「料理?」
「……」
「おみたいなのは、半もたずに帰る」
正は布団ので拳を握った。
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次のも、その次のも同じだった。
朝から晩までる。
洗う。
拭く。
運ぶ。
叱られる。
町へる使いの途で、学を着たたちとすれ違うことがあった。
教科を脇に抱え、笑いながら歩いている。
正はいつも目で追った。
自分も本当なら。
そううたび、胸が苦しくなった。
ある、帳の主から、
「女将にこれを渡せ」
と冊の帳面を頼まれた。
運ぶ途、いてしまった頁に自分の名があった。
《田正》
その横に、
《支度 円 源蔵殿へ渡済》
とかれていた。
正のが止まった。
円。
歳の正にはだった。
父が受け取った。
自分をここへ働きにす代わりに。
のに、
《もう決まった》
という父の声が蘇った。
その夜。
正は眠れなかった。
自分は奉公にされたのではない。
売られたのではないか。
そんな考えがれなかった。
翌朝。
正は帳で寅吉を待った。
「親方」
「何だ」
「父が円受け取ったって、本当ですか」
寅吉のが止まった。
「帳面を見たのか」
「本当なんですか」
「ああ」
正の顔がくなった。
「じゃあ俺、円でここに売られたんですか」
板が静かになった。
先輩たちまでこちらを見る。
寅吉はしばらく正を見ていた。
そして言った。
「そううなら、今すぐ帰れ」
正は息を呑んだ。
「ただし」
寅吉は帳の引きしをけた。
そこから、通の古びた封筒を取りした。
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「帰るに、これを読め」
封筒の表には、見慣れた父の字で、
《松岡寅吉様》
とかれていた。
正は封筒を受け取らなかった。
「何ですか、それ」
「おの親父が置いていった」
「いつ」
「おが来るだ」
寅吉は封筒を机へ置いた。
「読め」
正は嫌だった。
父の事などりたくないとった。
円を受け取って、自分を勝に町へしたの言い訳など聞きたくない。
だが封筒から目をせなかった。
に取る。
には枚の。
父の字は器用で、ところどころ墨が滲んでいた。
《寅吉さんへ》
《正は勉が好きです。本当なら学へやりたいのですが、今のではの子らをわせるだけで精杯です。》
正の指が止まった。
続きを読む。
《円は借と、末の娘の医者代に使います。正には言っていません。言えば、自分でくと言うだろうからです。》
胸が痛んだ。
りは消えなかった。
むしろ、
「言えば自分でく」
と決めつけられていたことが悔しかった。
さらにへ目を移す。
《つだけお願いがあります。》
《ただの雑用で終わらせないでください。》
正は息を止めた。
《あいつに見込みがあるなら、どうか包丁を覚えさせてください。田畑は気で駄目になります。学へはかせられませんでしたが、についたものなら誰にも取られません。》
最に、
《泣いて帰りたいと言っても、すぐには帰さないでください。
私が迎えに来ても、度は追い返してください。》
とあった。
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