"昭和41年、集団就職の少年が一年ぶりに帰った故郷" 第10話
もう毎こので飯をべることはない。
母の声で朝起きることもない。
父と畑へることもない。
友達と通学を歩くこともない。
それらを全部失って京へくのだとっていた。
しかし今は違った。
故郷はここに残っている。
そして京にも、もうつの常ができ始めている。
「帰る所が増えたんだよ」
母の言葉をいす。
歳のには理解できなかったことだった。
正は布団ので首の計へ触れた。
のでは文字盤は見えない。
それでも秒針がいていることは分かる。
自分がいないも故郷のはんだ。
父は怪をし、弟と妹はきくなり、母の髪にはいものが増えた。
そして自分も京で変わった。
帰ってくればへ戻れるとっていた。
だが戻れない。
それは寂しいことでもあり、当たりのことでもあった。
正は目を閉じた。
今度はの音を無理に消そうとはしなかった。
柱計の音と緒に聞こえていてもいい。
つとも、自分のにある音なのだから。
京へ戻るの晩、正の部には茶い鞄が広げられていた。
の夜と同じだった。
ただつ違うのは、今回は正自が着替えを畳んでいることだった。
シャツ。
着。
靴。
タオル。
寮の狭い部で何度も荷物を理しているうち、自然とさく畳む癖がついていた。
広告
母は横に座ってその様子を見ていた。
「くなったね」
「こんなの誰でもできるよ」
「は全部ぐちゃぐちゃだったよ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
キヨは笑った。
鞄の隙へ、の皮に包んだ餅と漬物を入れようとする。
「こんなにいらないって」
「持っていきなさい」
「いよ」
「べたら軽くなる」
昔から母はこうだった。
正は諦めて鞄へ詰めた。
部の隅に、さな裁縫箱が置いてあった。
の夜、母はそこから針を取りし、正の着枚枚へ名を縫いつけていた。
寮で取り違えないようにするためだった。
母は裁縫箱へ度を伸ばした。
そして止めた。
「名、もうかなくていいの」
正が笑う。
「自分のくらい分かるよ」
「そうだね」
母は箱をかなかった。
その仕を見た瞬、正は胸が詰まった。
母は、自分がもう歳の発ののではないことを分かっている。
それが嬉しい。
同にし寂しかった。
「正は帰れる?」
母が尋ねた。
「今度は帰るよ」
「本当?」
「親方にもめに言う」
「無理ならいいんだよ」
「帰るって」
正はしく言った。
母が頷いた。
荷物を詰め終えると、キヨは鞄をしばらく見つめていた。
も同じようにしていた。
あの、母は何を考えていたのだろう。
歳の息子を京へ送りすこと。
自分で決めたように見せて、本当はの事で選択肢がなかったこと。
広告
それでも笑って送りさなければならなかったこと。
今ならし像できる。
「母ちゃん」
「何」
「拭い、使えよ」
母は笑った。
「そのうちね」
「またそれかよ」
「次帰ってくるまでには使うよ」
正も笑った。
その夜はよく眠れた。
翌朝、正はいつもよりく目を覚ました。
台所から母が朝を作る音が聞こえる。父は庭先で古い鎌を研いでいた。妹はまだ眠そうな顔で飯をべ、弟はいつもより数がなかった。
「また京っちゃうの」
子がぽつりと言った。
母が「こら」とさくたしなめる。
「また帰ってくるよ」
正が言った。
「いつ?」
「正」
「絶対?」
「絶対」
妹はようやく笑った。
玄関で靴を履いた、正はの朝をいした。
あのも同じ所で靴を履いた。
何が待っているのか分からない京へくことが怖くて、紐を結ぶが震えた。
今は違う。
同じ。
同じの匂い。
同じ鞄。
だが正自が違っていた。
母が鞄へを伸ばす。
正は先に持ちげた。
「自分で持つよ」
キヨは元をし緩めた。
をる、正は度振り返った。
柱に刻んだの傷。
駄箱。
柱計。
古いちゃぶ台。
には、これらをもう度と見ることがないような気がしていた。
今は違う。
また帰ってくる。
そうえる。
駅まで父と母が送ってくれた。
健と子はのまで来た。
「兄ちゃん」
健が呼ぶ。
「何だ」
「俺、受かるから」
正は笑った。
「落ちたら京で笑ってやる」
「絶対受かる」
広告
おすすめ作品
-
完結第18話
喫茶ひばりの百円玉
昭和54年。商店街で二十年続く「喫茶ひばり」に、店主の律子は流行のテーブル型ゲーム機を四台置いた。百円玉が次々と入り、売上は急増。ところが、毎日のように通っていた常連客が、一人また一人と姿を消していく。子どもの遊びすぎに怒る保護者、ゲームを目の敵にする商店街会長、すっかりゲームに夢中の夫。店を守るための決断が、思わぬ騒ぎを引き起こしてしまう。しかも、ゲームを厳しく批判する会長には、誰にも知られたくない秘密があって……。昭和のゲームブームに揺れる、小さな喫茶店の人情喜劇。時代|歴史|昭和2.7万字5 71 -
完結第14話
昭和35年、高校を諦め祇園へ渡った15歳の少女
昭和35年、京都・丹後の貧しい農家に生まれた15歳の文代は、家族の暮らしを助けるため、高校進学を諦めて祇園の置屋へ奉公に出る。美しい舞妓への憧れを胸に飛び込んだ世界で待っていたのは、早朝からの雑用、厳しい言葉遣いの指導、足に血がにじむほどの芸の稽古だった。先輩芸妓に助けられながら修行を重ね、やがて「市春」という名を授かった文代。しかし、初めてのお座敷で目にしたのは、華やかな着物の裏に隠された大人の世界だった。故郷の家族を思いながら、少女は厳しい花街で自分の道を切り開こうとする。時代|歴史|昭和|夫婦1.9万字5 128 -
完結第12話
写真のない履歴書
昭和26年、家計を支えるため銀座の店で働いていた私は、新聞で「エアガール募集」の広告を見つけた。ところが応募の締め切り当日、履歴書に貼る写真がまだできていなかった。思い切って事務所へ駆け込んだ私を待っていたのは、想像もしなかった新しい世界だった。飛行機に乗った経験もない15人の女性たちが、手本となる先輩もいないなか、歩き方や接客を一から学び始める。戦後間もない日本で、家族のために選んだ仕事が、一人の女性の人生を大きく変えていく。職場逆転|時代|歴史|昭和1.2万字5 124 -
完結第10話
受話器の向こうの春
昭和19年、神戸。幼いころに母と弟妹を亡くし、親戚の家を転々としてきた15歳のハルは、自分の力で生きるため、電話交換手を目指す。厳しい試験と訓練を乗り越え、ようやく手にした仕事。失敗ばかりの日々も、優しい先輩や仲間たちに支えられ、ハルは初めて自分の居場所を見つけていく。受話器の向こうには、家族を思う声、助けを求める声、遠い街で働く仲間の声があった。しかし戦況が悪化するにつれ、つながらない回線が増え始める。戦火が迫る神戸で、少女が守ろうとしたものとは――。時代|歴史|昭和1.5万字5 171