みかん小説
本棚

"十年分の船代で始まった一人旅" 第1話

「まあ。今どき、もかけないと旅ひとつできない方もいらっしゃるのね」

最初の晩の夕で、黒川千鶴子さんはのフォークを皿の脇へ置き、まるで気の話でもするようにそう言った。丸いテーブルにはが座っていて、私のほかには千鶴子さん夫妻と、野から来たという崎吉さんと夫の正さん、それから旅の代男性がいた。千鶴子さんの声は妙によく通り、隣のテーブルからも何かがこちらを向いた。

「主がね、毎しずつ代を積みててくれていたんです。で百万円ほどになっていました」

私はそう答えただけだった。けれど千鶴子さんは、私の首からがっているい乗カードへ目をやり、次にテーブルの名札に印字された客番号を見た。私の部がの内側にある、窓のない客だと分かったのだろう。

「せっかくの旅なのに、内側のお部でしょう? 私ならの見えない部では無理だわ。主にも言っているの。旅は若いうちからちゃんとおをかけて楽しむものだって」

隣にいた夫の隆さんは、さく笑っただけだった。吉さんはフォークを止め、正さんはのグラスを両で包んだまま俯いている。私は腹がつより先に、胸の内側へさな棘が刺さったような覚を覚えた。

広告

私が笑われるだけなら構わなかった。

けれど、「」というを笑われたことだけは、どうしても軽く流せなかった。

半にくなった夫の常夫は、町で旋盤を回して働いただった。自分のは擦り切れるまで着るくせに、末になると必ず料袋から決まった額を抜き、茶い封筒へ入れていたらしい。私はそのことを、常夫がくなったあとまでらなかった。

「ええ。ずいぶんゆっくりした夫婦だったんです」

それだけ言って、私は窓のへ目を向けた。港をれたばかりのの向こうで、夕がを細く照らしていた。千鶴子さんは何か言いりなそうにをかしたが、ちょうど仕係が次の料理を運んできたので、その話はそこで途切れた。

事が終わる頃、私はつだけ困ったことをった。

この夕の席は、航が終わるまで変更できないという。

つまり私はこれから晩、毎晩同じテーブルで千鶴子さんと向かいうことになる。

そして堂をる際、彼女は私の背へ向かってくも次の質問を投げてきた。

「杉本さん、ちなみにこのは何回目なの?」

私は振り返った。

「初めてです」

千鶴子さんの顔に浮かんだ「あら」という表を見た瞬、よりも、内側の部よりも、彼女が本当に見ているものが何なのか、しだけ分かった気がした。

広告

この旅を決めたのは、航のわずかだった。

常夫を見送って半。私は押し入れの段に積んであった作業着を片づけていた。を退職してからも捨てずにいた紺の着を畳もうとすると、内ポケットから古い茶封筒が落ちた。

表には、太い鉛で文字だけかれていた。

《代》

には現と、枚のが入っていた。平成の終わり頃から始まると額が几帳面に並び、毎千円、余裕のあるは万千円、賞与のには万円と記されている。分を計すると、ちょうど百万円になっていた。

そのには、クルーズ会社の古いパンフレットも挟まっていた。

常夫は、々こう言っていた。

「仕事を全部終えたら、回くらいきなに乗ってみたいな。お、酔いするかな」

私はいつも笑っていた。

「あなたの方が酔うんじゃないの」

「そのはで寝てればいい」

本気で計画していたとはわなかった。

その晩、娘の真理子を呼び、封筒を見せた。娘はしばらく何も言わず、最にパンフレットの古びた表を撫でた。

「お父さんらしいね。黙ってこんなことして」

「でくつもりだったみたい」

「だったら、お母さんでってきたら?」

いがけない言葉だった。

私はすぐ首を振った。常夫がいないに乗って何が楽しいのか。

らないばかりの所で週も過ごす自信などない。

しかし真理子は、父親とよく似た言い方をした。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: