"旅館に残された姉" 第14話
昭、。 芳子が戻ってから、以のが流れていた。
あるれたの午、帳に入りしている元の酒問の主が、酒の納品がてら源蔵と茶を啜っていた。 帳の奥からは、パチパチと軽なそろばんの音が響いている。 芳子が、今の仕入れと売の締め作業をっている音だった。
「いやあ、源蔵さん。藤乃さんも見違えるように落ち着きましたな」 酒問がしたように帳を見回す。 「はどうなることかといましたが、芳子さんが帰ってきてくれて本当に良かった。これで藤原も泰ですな。……いずれは、芳子さんがこの宿の代目として、正式に跡を継ぐんでしょう?」
源蔵は湯呑みを持ったまま、チラリと厨の芳子に線をらせた。 昔の源蔵なら、「当たりだ、娘がを継ぐのは当然だ」と胸を張っていただろう。 だが、源蔵がをくよりく、帳の簾をくぐって芳子が姿を現した。
には、仕入れ伝票の束。 「黒さん、お酒の伝票、確認しました。今分、相違ありません」
「おお、芳子さん。ご苦労様です。……で、どうなんです? もう若女将として、腹は決まりましたか?」 酒問が気さくに笑いかける。
芳子は帳のに受領を置き、悪戯っぽく、けれど毅然と微笑んだ。
「いいえ。まだ決めていません」
「えっ?」 酒問が目を丸くした。
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「私は現、藤乃と単位で業務契約を結んでいる料理責任者ですから。来の契約を更するかどうかは、末の経営状態とお父様の提示される条件次第ですね」
「な……なはは、芳子さんは冗談がきつい」 酒問は引きつった笑いを浮かべ、そそくさと引きげていった。 帳に残された源蔵は、苦虫を噛み潰したような顔をして煙にをつけたが、鳴ることは切しなかった。
末の料。 源蔵は帳の庫をけ、冊の真しい綴じの『賃台帳』を広げた。
その――番のには、源蔵自の角張った跡で、堂々とこう墨されていた。
『料理責任者 藤原芳子 万千円』
物価の昇に伴い、与は適正に改定されていた。 源蔵はみのある茶封筒を取りし、厨からがってきた芳子のへ、両で差しした。
「……今分だ。受け取れ」
芳子は封筒を受け取り、そのみをのひらで確かめた。 「ありがとうございます。今も、きっちり働かせていただきました」
芳子はしだけ元を緩め、続けた。 「あ、それからお父さん。来週の曜ですが、私、お休みをいただきますから」
「……何だと?」 源蔵の眉がピクリとねる。 「曜は葉の盛りで、満だぞ。厨はどうするんだ」
「の曜のうちに、仕込みはすべて割方終わらせておきます。当は、お父さんとお母さんで最の入れと盛り付けをしてください。
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指示は完璧にいて置いていきますから」 芳子は鞄を肩にかけた。
「京へって、修平と会ってくるんです。あの子、向こうで結婚が決まりそうだってをくれたので、お祝いを届けてきます」
源蔵の顔が微かに歪んだ。勘当同然にしてをびしていった男の名。 だが、源蔵は何も言わず、ただフンとを鳴らして窓のを向いた。
「……産に、京の美い羊羹でも買うてこい」 さな、掠れた声だった。
厨の隅で茶碗を拭いていた千代が、ぬぐいで元を押さえ、クスクスとさく笑った。
曜。朝の渋湯温泉駅。 始発列のデッキにった芳子は、き始めた列の窓から、ざかる温泉の湯煙を眺めていた。
澄み渡るれの空。 々は葉に燃え、頂には初冠のいベールが輝いている。
。 歳の、全財産千円と絶望だけを抱えてび乗ったあの始発列の製シート。 あの、自分は「族」という名の底れぬ沼から逃げすことしからなかった。
けれど、今は違う。
ハンドバッグのには、自分の名が刻まれた通帳と、実印の押された契約、そして父から渡されたばかりの料袋が入っている。 自分は、誰の犠牲にもならなかった。 弟の代わりにもならず、母のの連鎖も継がず、父の横暴にも屈しなかった。
自分のでち、自分ので技術を掴み取り、そして――あの頑迷な族と、対等なとして再契約を結び直したのだ。
残ることも。 ていくことも。 働くことも。 辞めることも。 すべては、自分自の志で決める。
藤乃の料理を続けるか、いつか独して自分のさな料理を持つか、それとも誰かとしい庭を築くか――その未来のの帳面は、すべて芳子ののひらのにあった。
列があいのトンネルを抜けると、眩い朝のが内いっぱいに差し込んできた。 芳子は背筋を伸ばし、く息を吸い込んだ。
厨の包丁ダコが刻まれたのひらは、しく、武骨だった。 けれど、そのは紛れもなく、自分だけの自由と尊厳を勝ち取った、誇りき労働者のだった。
線は、どこまでも続いている。 誰の敷いたレールでもない、芳子自の選んだが、ののへと力く拓けていた。
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