"大正11年、幕開けの土下座から始まった女優の再起" 第1話
幕の向こうの百
「今夜、芝居をお見せすることはできません」
正、陸の港町にある福栄座で、幕ががった瞬のことだった。桟敷もも客で埋まっていた。磯の匂いを含んだ夕が入から流れ込み、井の灯は黄く揺れている。内には演のざわめきが残り、子どもを膝に抱いた母親が、台のに据えられた太鼓を指さしていた。誰もが、旅回りの朝座が披する『浜の灯』を待っていた。
ところが台に現れたのは、装をまとった役者ではなかった。座の森川宗を先に、女優の志乃、かさの役者お、鳴物の惣太、具方のまで、が普段着のまま並んでいた。宗が板に額をつけると、ほかの者も斉にをげた。最列の男が笑いかけたが、誰も冗談を返さなかった。
「何だ、それは。か」と客席から声がんだ。宗は顔をげた。歳の彼は以旅を続けていたが、こんなにい顔で台へたことはなかった。「皆様からお預かりした入料が、私どもには銭も渡っておりません。装の保管料も宿代も払えず、このまま芝居を続ければ、からさらにくの方にご迷惑をかけます」。話が終わるに、罵声ががった。
「は払ってあるぞ」「通しで買ったんだぞ」
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。桟敷の客がちがり、番付を丸めて台へ投げた。階席では若い男がすりを叩き、子どもが泣きした。宗の横に座る志乃は、板のさな節穴を見つめていた。昨夜、自分ので描いた幕の裏には、今夜の芝居のために縫い直した青いの布が掛かっている。それを見せることさえできないのが、惜しかった。
騒ぎの、劇主の相良弥がからがってきた。い麻の着を着て、胸にの計鎖をげている。「皆さん、落ち着いてください。これは座と興師のの銭の問題で、当館には責任がありません」と彼は言った。宗がちがると、弥は声をくした。「勝に止を宣言されては困りますな。お客ので商売を壊したのは、そちらでしょう」
志乃はできずに顔をげた。「は黒川さんが預かっていたはずです。どうして劇から座へ届かないんですか」。弥は若い女優を瞥し、「役者が帳の話をするものじゃない」と言い捨てた。その言を、志乃は覚えていた。母が病気で働けなくなったも、装を縫って得たを渡そうとすると、の男に同じことを言われたからだ。
結局、内の混乱を収めるため、宗は朝から切符の扱いを説することを約束した。客が次々とていく、台の央にはをげ続けるが残った。
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最にの老婆がから声をかけた。「は本当に幕がくんかね」。宗は答えられなかった。志乃だけが顔をげ、誰にも聞こえないほどさく言った。「けます」。その、劇の奥から、の錠を落とすい音が響いた。
志乃ののすぐには、見物が落とした片があった。紺の墨で刷られた番付の端で、『連続興』という文字だけが読める。座はこのを何百枚も町へ配った。魚の先にも、旅館の壁にも、港へ続くにも貼った。志乃は宣伝を伝った夜、番付を見げる女から「とも来たら、同じ芝居を見られるの」と尋ねられたことをいした。『毎しずつ違うお話ですよ』と答えると、女はうれしそうに母親の袖を引いた。いま台ので返事を待っているのは、っただけではない。約束を楽しみにしていた子どももいた。
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