"大正11年、幕開けの土下座から始まった女優の再起" 第8話
ひとりではかない幕
倉の台は、劇と比べればみすぼらしかった。板をねた台は歩くたびにわずかに音をて、背景は古い帆布へ青い線を描いただけのだった。い桟敷も、豪華なもない。その代わり観客の顔がい。泣く者がいれば役者に見えるし、退屈してを組み直す者の気配まで分かる。志乃はそのさが怖かった。
初演の朝、切符は予定の半分ほどしか売れていなかった。慎吾は「赤字にはなるが、借りた倉の費用は払える」と言い、帳面を志乃へ渡した。彼は座のためにただで働いているのではなく、印刷代の支払いを分けて受け取る約束をしていた。志乃はその取り決めを事にした。善に甘えて暮らしを回せば、いつか別のところへ無理を押しつけることになる。
演分、突然にわかがった。倉の根を打つ音はきく、太鼓の音がかき消される。さらに客のひとりが元の板に引っ掛かり、が急いでを直した。宗は「今はやめるか」と言いかけたが、おがした。「度も幕をげずに帰ったら、この町にはもう来られない」。宗はを閉じ、客席へをげて始をし遅らせると告げた。
志乃の最初の番が来た。台にを置いた途端、稽古では自然にた言葉が消えた。目のには乾物商の女主がいた。
広告
初にっていた男もいる。自分の名を記した番付を持つ子どもまで見えた。志乃はをいたが、何もてこない。袖で惣太が鳴らす拍子の音だけが響いた。
その、おが台にない言葉をかけた。「あんた、そこにってばかりいたら、ので体がえるよ」。おの役は老いた母親だった。志乃ははっとして、網を繕う元へ線を落とした。「がたくても、この網を直さないとの飯がありません」。それは志乃が自分でいた台ではなかった。けれど、待つだけの女にしたくないという気持ちが、初めてからた言葉だった。
芝居は予定よりくなった。盤ではが台袖の板をで押さえ、惣太が音を急ぎすぎておに睨まれた。客の反応も様ではない。笑ってほしいところで静まり、沈黙を置いたところで咳が起きた。それでも志乃は最まで台をりなかった。終幕、主公は帰らない乗りを待つのをやめ、灯を消さずに浜の仕事を始める。志乃がその決を告げると、客席のろで誰かが「そうだ」と呟いた。
拍はきくなかった。数が先に帰り、残った客のには「男の役者がいないと物りない」と言う者もいた。志乃は台をりた、悔しさにが震えた。しかし乾物商の女主がで言った。「次はいつやるの」
広告
。志乃は答えに困った。まだ次を約束するだけのも所もない。「決まったら、必ず番付にきます」と答えた。その夜、帳面の最に慎吾がき添えた言葉は簡単だった。『収入、支とも記帳済。未払あり』。台はいたが、座が救われたわけではなかった。
終幕の、台裏では誰もすぐにをかなかった。志乃は袖をほどこうとして、指先が震えているのに気づいた。客席の見えない所で宗が「ご苦労」と声をかけたが、その言葉だけでは今の失敗が消えるわけではない。おは台の板を指して言った。「目であんたがへた、ろが空いた。次は私がくから、そこまで計算しておきな」。惣太も伴奏がまったところを自分から認めた。芝居はがくなれば済む仕事ではなかった。志乃は悔しい気持ちを持ったまま、次の稽古の印を台本へ付けた。
広告
おすすめ作品
-
完結第23話
白線の先の女たち
昭和三十九年、女子競輪が終わりを迎えようとしていた。三十四歳の佐伯久美子は、最後の地元決勝で優勝する。しかし彼女が真っ先に求めたのは、花束でも拍手でもなく、次の出走表だった。返ってきたのは、もう走る場所はないという答え。そんな久美子の前で、十九歳の新人・夏子は「私は来年も勝ちたい」と訴える。仕事、家族、怪我、そして失われた競走の舞台。走ることを諦められない女たちは、それぞれの暮らしを背負いながら、新しい一歩を探し始める。時代|歴史|昭和|ミステリー3.0万字5 16 -
完結第18話
剣を捨てない花嫁
八歳の春、父から「今日からお前は息子だ」と告げられた澄は、道場の跡取りとして剣だけを教え込まれて育った。だが十九歳の秋、待望の弟が生まれると、父は突然、借金の肩代わりと引き換えに彼女を久世家へ嫁がせてしまう。女らしい振る舞いができず、屋敷の人々に笑われる澄。そんな彼女に夫の春臣だけは優しかった。ある月夜、春臣から差し出された木刀を握った瞬間、二人の間に隠されていた七年前の縁が明らかになる。そして澄は、自分の婚姻にまつわる思いがけない秘密へと近づいていく。時代|歴史|親子関係|修羅場1.8万字5 44 -
完結第21話
昭和29年、棟梁が祝いの柱を割った理由
昭和二十九年、上棟式の朝。棟梁・源吉は、自ら建てた家の柱に異変を感じ、祝いの客の前で斧を振り下ろす。内部から現れたのは、黒く傷んだ木だった。 仕事も信用も失いかける中、娘が見つけた不自然な印と、材木置場の青年の証言から、粗悪材の印を改ざんして売る仕組みが明らかになる。しかし源吉自身も、十分に検品せず判を押していた。時代|歴史|昭和2.7万字5 681 -
完結第20話
桑の音が消えた村
昭和三十五年、信州の養蚕村で、蚕が一夜にして全滅する。唯一無事だったのは、昔ながらの方法にこだわり、村人から笑われていた七十八歳のトヨの蚕室だった。 疑いを向けられた祖母だったが、原因は共同散布された新しい薬剤にあった。しかも農事組合を率いる息子・慎造は、事前に危険性を知らされていた。時代|歴史|昭和2.5万字5 1761