"大正11年、幕開けの土下座から始まった女優の再起" 第12話
伊之助の値段
伊之助からが届いたのは、帳面を突きわせた翌朝だった。封筒には沢の消印があり、宗だけに宛てられていた。宗は黙って読み、しばらくして志乃を呼んだ。「俺だけがっていても仕方ない」。伊之助は隣の町の芝居へ演していた。相良からて替えてもらったを返すため、半分の演を引き受けたという。妻が子をごもっており、旅のに実へ預けた族へ送るも必だった。
「それなら、なぜ相談してくれなかったんでしょう」と志乃が言うと、宗は苦い笑いを浮かべた。「板役者が借の話をしたら、の者がになるとったんだろう」。だが伊之助が座の台本を持ってった理由まではいていなかった。志乃は原稿の初稿を眺めた。伊之助は自分の役を良くしようと、毎のように台の直しを求めた。うるさくじたこともあるが、彼の芝居に助けられていたのも事実だった。
志乃は宗に願いて、で沢へ向かった。劇の裏で伊之助を待つと、化粧を落とした彼は驚き、すぐに苦い顔をした。「を返せと言いに来たのか」。志乃は首を振った。「台本を返してください」。伊之助はしばらく黙り、やがて楽の鞄から呂敷をした。志乃がくと、半の原稿は赤い墨で直されていた。
広告
元の台の脇には細かな込みがあり、ところどころの端が擦り切れていた。
「持っていけば、いつか返してもらいに来るとった」。伊之助は笑ったが、その笑いは疲れていた。「座には、俺が言いにくいことを言わせた。志乃にはもっとひどいことをした」。志乃はのことを尋ねた。「相良さんからのおは、どんな約束で受け取ったんですか」。伊之助は、座が陸へ来るに、次の興の契約を相談していたと認めた。相良は彼の気を見込んで個演の話を持ちかけ、を渡していた。伊之助はまだ座のためになるとって受け取ったが、福栄座の件がこじれると、相良は別ので演するよう迫ったという。
「断れば、借りたをすぐ返せと言われた。俺は怖かった」。伊之助は真っすぐ志乃を見た。「逃げたのは俺だ。だが、族がいるから仕方ないと言って済ませるつもりもない」。志乃は原稿を包み直した。「次の台にてくださいとは言いません」。伊之助が顔をげる。「ただ、私たちに何の相談もなくったことは忘れません。別の町でつなら、そこでちゃんとお客さんのにってください」
帰りの列で、志乃は初めて原稿を読み返した。伊之助が赤い墨で直した台のに、ひとつだけ自分にはけなかった言葉があった。
広告
待つ女へ向かって男が言う、「帰ってくるのを待たせたは、俺の柄にはならない」。志乃は窓のの田を見ながら、その言葉をしい芝居へ残すか迷った。伊之助のしたことを許すのとは違う。芸ので本当だとった言葉を捨てる必はないのかもしれなかった。
伊之助の楽には、端がほつれた台装が掛かっていた。志乃はその袖を見て、彼がる朝に荷物がなかった理由をようやく理解した。の町で稼いだのくは妻の実へ送られ、役者の華やかな着物も借り物がほとんどだったのだろう。だからといって黙ってったことが許されるわけではない。志乃は伊之助に「今度、台を替わるは、隣につ者にも告げてください」と言った。伊之助は「そうする」と答えた。たったそれだけの約束だったが、志乃にはを返す話と同じくらい切にえた。
広告
おすすめ作品
-
完結第23話
白線の先の女たち
昭和三十九年、女子競輪が終わりを迎えようとしていた。三十四歳の佐伯久美子は、最後の地元決勝で優勝する。しかし彼女が真っ先に求めたのは、花束でも拍手でもなく、次の出走表だった。返ってきたのは、もう走る場所はないという答え。そんな久美子の前で、十九歳の新人・夏子は「私は来年も勝ちたい」と訴える。仕事、家族、怪我、そして失われた競走の舞台。走ることを諦められない女たちは、それぞれの暮らしを背負いながら、新しい一歩を探し始める。時代|歴史|昭和|ミステリー3.0万字5 16 -
完結第18話
剣を捨てない花嫁
八歳の春、父から「今日からお前は息子だ」と告げられた澄は、道場の跡取りとして剣だけを教え込まれて育った。だが十九歳の秋、待望の弟が生まれると、父は突然、借金の肩代わりと引き換えに彼女を久世家へ嫁がせてしまう。女らしい振る舞いができず、屋敷の人々に笑われる澄。そんな彼女に夫の春臣だけは優しかった。ある月夜、春臣から差し出された木刀を握った瞬間、二人の間に隠されていた七年前の縁が明らかになる。そして澄は、自分の婚姻にまつわる思いがけない秘密へと近づいていく。時代|歴史|親子関係|修羅場1.8万字5 44 -
完結第21話
昭和29年、棟梁が祝いの柱を割った理由
昭和二十九年、上棟式の朝。棟梁・源吉は、自ら建てた家の柱に異変を感じ、祝いの客の前で斧を振り下ろす。内部から現れたのは、黒く傷んだ木だった。 仕事も信用も失いかける中、娘が見つけた不自然な印と、材木置場の青年の証言から、粗悪材の印を改ざんして売る仕組みが明らかになる。しかし源吉自身も、十分に検品せず判を押していた。時代|歴史|昭和2.7万字5 681 -
完結第20話
桑の音が消えた村
昭和三十五年、信州の養蚕村で、蚕が一夜にして全滅する。唯一無事だったのは、昔ながらの方法にこだわり、村人から笑われていた七十八歳のトヨの蚕室だった。 疑いを向けられた祖母だったが、原因は共同散布された新しい薬剤にあった。しかも農事組合を率いる息子・慎造は、事前に危険性を知らされていた。時代|歴史|昭和2.5万字5 1761